教育を受ける権利と義務

大阪大学名誉教授・畑田家当主  畑田 耕一

 日本国憲法第26条は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」ことを謳い、さらに続けて「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」、「義務教育は、これを無償とする。」と教育に対する保護者ならびに国の義務を明示している。筆者は、この条文は教育を受ける権利という基本的人権の一つを、教育の重要性に鑑み、特に取り出して述べたものであると考えていた。それで、何故生徒・学生の教育を受ける権利のことだけを述べて、その権利を享受するものの義務に触れていないのかを不思議に思っていた。そのことを放送大学のセミナーで話したところ、法学部出身の方が、その点は、憲法第12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。叉、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」に明記されているので、ここであらためて繰り返す必要はないのだと教えて下さった。そこで26条をあらためて読み返してみて、これは子供・若者の教育の重要性を国民に認識してもらうための条文なのだと思うようになった。

 筆者は、20年以上前から小学校、中学校、高等学校への出前授業に精を出している。小学生は、勉強の好き嫌いは別として、大抵は「勉強しなければ!」と思っている。「なぜ勉強しなければならないのか?」と問うと、答えに詰まる子もいるが、「一生懸命勉強して、人の役に立てる人になりたい。」という意味の答えが意外に多く返ってくる。憲法は習ってなくても、基本的人権の精神は小学生でもよく理解しているのである。

 ところで、小学校で子供たちの思考力・思索力養成のための宿題の必要性を言うと、先生方から「宿題を出してもあまりやってこないのですわ」という溜息が漏れる。良く聞いてみると、親が「授業料を払っている塾の宿題は大事だから、無料の学校の宿題に優先してやるように。」という奇妙な指図をするためだということが分かった。「子供の教育の前に、親の教育をしたいですわ。」という校長先生の溜息を聞いたのは一度ではない。土曜の夜などに教育のことを話し合うための先生と親の集まりを企画しても、出てこられるのは極僅かで、本当に来てほしい人はほとんど来られないという。生涯教育の必要性をひしと感じた出前授業の一こまである。

 この文を書く直前に読んでいた大阪帝国大学創立史(西尾幾治編)に、当時(昭和6年)の田中文部大臣の車中談が載っており、その中に「不況で大学生は卒業しても就職先がないという人がいるが、僕はそんな就職を前提として学問するような大学生、また投資でもしているようなつもりの父兄には、反省を促したい。」という一文があった。70有余年を経てなお同じ様な状況というのは一寸情けない気もするが、これを嘆いていても仕方がない。生涯教育を進めて「国民皆学」の機運を醸成していくという地味な方法以外に解決策はあるまい。放送大学をはじめとして大学、高校などの教育関係者の一層のご努力をお願いしたいところである。

 筆者に学ぶことの意味を鮮烈に印象付けてくれたのは、終戦まぎわ、小学校4年生のときに、学校を訪れた陸軍中尉であった。われわれの海軍体操(海軍の兵隊の体操を小学生向きにアレンジしたもの)を見学したこの中尉さんは「君たちの体操を見て私は大変心強く思った。しかし、体操も大事だが勉強も一所懸命やってくれ。戦争が終わった後の世界の平和のために」と挨拶された。戦争中に陸軍の兵隊さんから聞いたこの「世界の平和のために勉強する」という一言は年とともに筆者の体の中で重みを増していった。今、いろいろな意味での勉強もかねて出前授業をやらせて頂いている心の奥にもこの言葉があることを述べて筆をおく。

 (本稿は放送大学大阪学習センター機関誌「みおつくし」第18号に掲載されたものを、許可を得て一部改稿したものである。)

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