教育とロータリーの四つのテスト

大阪大学名誉教授  畑田耕一

 大学教師をしていた1975年、ふとしたことが切っ掛けで、高等学校への高分子科学の出前授業を始めた。その後、行先は小学校、中学校にも広がり、また、1996年ロータリークラブに入会してからは、ロータリーの奉仕活動の一環としても出前授業に行くこととなった。2007年教育・研究の現場を離れてからは、ロータリーの社会奉仕として、出前授業に精を出している。最近は、専門の高分子に関わる話だけでなく、今の子供たちにこれだけは伝えて置きたいという使命感もあって、「いま、戦中、戦後のことを思う」、「日本の古い木造住宅に見られる生活の工夫」、「道徳を考える」などに話題を広げている。そんな中で、子供たちに科学や道徳を語る時に、質問形式のロータリーの四つのテストが良い教材であり、また、教育・学習上のいろいろなヒントにもなることに気がついた。ここでは、それにまつわるいくつかの話題について述べてみたい。

道徳的能力と四つのテスト(参考文献1)

最近、個人の道徳的能力や職業倫理の欠如に起因するとしか言いようの無い事件のニュースに接する機会が増えたような気がする。教育基本法第2条第1項には「豊かな情操と道徳心を培う」こと、第3項には「自他の敬愛と協力を重んずる」ことが述べられているし、小学校、中学校では、道徳の時間が週1回、年間35回ある。子供たちは道徳の時間をどのような姿勢で学んでいるのだろうか、一度自分も子供たちと道徳の話をしてみたいと思ったのが、出前授業のテーマに道徳を加えた切っ掛けである。ところで、「道徳とは何か」と聞かれると、辞書に書いてある説明はともかく、意外に答えにくい。それで、筆者は「道徳的能力」として話をすることにしている。

科学・技術が進歩し、社会のいろいろなシステムが多様で複雑なものになるにつれて、社会人に要求される道徳的能力も、少しずつ変わらざるを得ないのであろうが、人が生きていくために必要な道徳的能力の根本は、人間が他の人々や動植物を含む自然環境に対してどのような態度を取るべきかを、その時点までに修得している知識をもとにして判断する能力であることに変わりは無いと思う。道徳的能力を発揮するには、人だけではなく、人以外の動植物やものとのコミュニケーションが出来なければ、これらに対してどのような態度を取るべきかの判断が下せないし、その判断が適切であったかどうかの判定もし難い。人以外の動植物やものは人間の言葉をしゃべらないので、それらとのコミュニケーションは想像力に頼るしかない。また、社会人として真っ当に生きていくためには、過去に学び、未来を予測することが必要である。そのためには、既に亡くなった人やこれから生まれてくる人との想像力を駆使したコミュニケーションも要求される。言葉による対話の可能な人との相互理解にも、想像力を働かさねばならないことがあるし、自分以外の人や動植物を含む自然環境は、自分の国についてだけではなく、当然、自国以外の国についても考慮しなければならない。このように考えれば、道徳的能力を発揮するための根源の力は知識をもとにした想像力であるということが良く分かっていただけると思う。生きる力の根源は想像力であるともいえる。

想像力は、また、創造力の根源でもある。新しい物を創るとき、新しい概念を創り出すときにも、想像力が必要である。先ず、問題とする新しいものや概念にいたる道を、それまでに修得している知識をもとにして想像で考え、それに沿って実験したり、他人と議論したりしながら、新しい物や概念を創り出そうとする。うまくいかなければ、また想像力を働かせて別の道を探る。この過程での優れた思いつきや直感も想像力によるものである。想像を実行に移しその成果を検証するという過程を繰り返して、目的を達成し、新しい物や概念を創り出したとき、その人の想像力の集積結果が創造力として他から評価される。このように考えると、想像力の豊かな人は、創造力を発揮できるだけではなく、善悪の判断基準さえしっかりして居れば、道徳的能力も高いということになる。

自然科学の分野で、科学者・技術者の創造力の成果として、新しく生み出されたものや概念は、本来、世界の人々の幸せと平和のためにのみ使用されるべきものである。ところが、核兵器のように、一部の国の利益のためのみに利用され、多くの人々を不幸に陥れるものもある。このようなことの起こるのを防ぐには、善悪の判断基準をしっかりと持つ、道徳的能力の高い国民養成のためのたゆまざる努力が不可欠である。道徳が義務教育の重要な授業の一つになっている所以でもある。

ところで、人間がいろいろなことを言い、あるいは、行うに当たって参照するべき判断の基準は、法律の様に既に決まっている外部基準ではなく、各個人が自分の中に持っている内部基準、すなわち、自分の中のもう一人の自分とも言える人間が示す判断基準である。したがって、各個人独自のもので、人により少しずつ異なるものではあるが、その違いがあまり大きいと、いろいろな意味で不都合が生じる。そのような事態を避けるためには、各個人の判断基準がある程度の一般性を持っていることが必要である。道徳の授業の目標は、そのような基準を一つに決めて教え込むのではなく、具体的な例を基に、判断基準の意義と必要性を学ばせ、生徒一人一人にとって独自で且つある程度の一般性を持つ基準を作り上げる力を養わせることである。ロータリークラブの会員が、日常の言行の評価のために使用することを推奨されている質問形式の基準である「四つのテスト」(参考文献2)をここに示す。この四つのテストには、人間が社会で生きていくうえでの善悪の判断基準が、ロータリアンのみならず一般の人々にも理解できるような形で、簡潔かつ的確にまとめられていると思う。

<四つのテスト>              <The Four-Way Test>

言行は以下のことに照らしてから行うべし   Of the things we think, say or do

1.真実かどうか                    Is it the TRUTH ?

2.みんなに公平か                  Is it FAIR to all concerned ?

3.好意と友情を深めるか                       Will it build GOOD WILL and BETTER FRIENDSHIP ?

4.みんなのためになるかどうか          Will it be BENEFICIAL to all concerned ?

まず、「真実かどうか」は「嘘偽りがないかどうか」というような単純な解釈はせずに、もう少し深く考えて、「物事の原理・原則、根本原理に適っているかどうか」と理解するのがよいと思う。

「みんなに公平か」は、私的感情をあまりまじえずに、偏り無く対処している、いわば、太陽の様な存在か、という意味なので、「みんなに公正か」という方がよいのかもしれない。真実は、後で述べるように、時として信念の要素を含むことがある。それが相手を困らせることが無いような配慮も要るということを、言外ににじませているとも言える。

「好意と友情を深めるか」は、自分以外の人や動植物やものと付き合うときの、ごく自然で基本的な対処の仕方であるが、ここではある程度の私的な感情がまざるのはやむを得ない。大事なことは、それが他を排除するものであってはならないということである。

道徳的な基準は、自分が何かを行うときの他への態度の規範であるが、それは当然、相手もそれに反応しやすく、何かを行いやすいための配慮を含んでいなければならない。これが「みんなのためになるかどうか」であると考えられる。「好意と友情を深めるか」の判断で私的な感情が強く入り過ぎないように戒めているという解釈もできる。

ここで、四つのテストの起点である「真実かどうか」の「真実」について少し考えて見たいと思う。真実は、上にも述べたように、物事の根本原理、すなわち、互いに関連するいろいろな事実をうまく説明できる、あるいは、それらと合致する考え方である。時の経過とともに多くの正確な事実が蓄積されると、それらをつかさどる根本原理も少しずつ深まっていく。すなわち、真実は時代とともに深化していく。真実は、また、人によって異なることもある。同じ事実を知ったとしても、その人の経験や洞察力によって、それらを統一して説明できる概念、すなわち抽出できる根本原理、真実が若干違うこともありうる。その意味で、真実はその人の信念、あるいは、確信の性格を持つこともある。事実は、また、場所による偏りを示すこともある。したがって、それに基づく真実も場所によって多少の違いが出てくることになる。真実は、それに関わる人、時代、場所とともにある種のゆらぎを示しつつ、次第に深まり、非常に長い時間をかけて唯一つのものに収斂していくといえる。したがって、社会における行動の規範も、唯一つのものではなく、人、時代、場所とともにある種のゆらぎを示すものということになる。

四つのテストの基本は「真実かどうか」であるが、それが自己の信念のかたくなで偏狭な押し付けにならないように、短い言葉を組み合わせ、互いに相補わせることによって、実に上手に、道徳的規範という、考え様によっては堅苦しいことが、やさしく、穏やかに述べられている。四つのテストのそれぞれを個別のものとは考えずに、全体を一つに融合したものと捉えて、自分の言行を判断することが重要である。

ある中学校の3年生100余名に、ここまでの文章の内容を話したところ、普段の道徳の授業とは様子の違う話に、ある種の驚きと戸惑いを示しつつも、熱心に聴いてくれた。その時の生徒の感想・意見を読むと、20%近い生徒が「四つのテストは善悪の基準として納得のいくものである」という意味の反応を示していた。「道徳とは何かという話は、考え方の根本的なことで、とても参考になりました。特に、四つのテストは善悪を判断する基準として、とても分かりやすくて、日常生活にあてはめて考えることができます。『何のためにこれをやるのか』という答えを出すことができると思います」という意見からは、このテストが中学生にも訴える力を持っていることが分かる。「善悪の判断、区別というのも難しいと思いました。『みんなの役に立つ』というので、大多数の人には役に立つが、ごく僅かの人には役に立たない場合には、それは善なのか悪なのかどちらなのか悩みました。先生はどっちだと思われますか」という生徒とは、是非もう一度会って話をしたいと思っている。

根本原理を学ばせる教育を

ところで、これまでの日本の教育は、生徒に知識を習得させることを主流とし、物事の根本原理を先生と生徒が一緒になって一所懸命考える教育を怠ってきた。根本原理、すなわち、四つのテストの根本である真実を学ばせるのを忘れていたと言いたくなることすらある。理科で密度のことを教えるのは中学校であるが、先ず密度とは物質の質量を体積で除したものであるという定義を教えて、その後で、1グラムの物体の密度が2であれば体積はいくらか、というような計算をさせる。しかしながら、密度のことを教える前に、物質を構成しているのは分子という目に見えないごく小さな粒子なのだという化学の根本原理である分子の概念を教えていないので、「十円銅貨を水に入れると沈むが、十円銅貨よりは、はるかに重い家の大黒柱を水に入れると浮くのは何故か」と聞かれると、生徒は、「それは十円銅貨の密度は水の密度の1より大きく、大黒柱の密度は1より小さいからだ」という答えは出来ても、その密度の違いは何によるかは答えられない。ところが、ある中学校で、分子の概念を教えたうえで、「密度の大小は何によって決まっていると思う?」と聞いてみたら、一人の生徒が、「分子の質量」と答えたので、「それだけか?」と、もう一度聞いたところ、別の一人が「分子の集まり方だ。分子がぎゅうぎゅうに詰まっていれば、分子の質量があまり大きくなくても密度が大きくなる」と言ってくれた。非常に嬉しかったのと同時に、根本原理の教育を、多少時間はかかっても、もっと進める努力をするべきだと強く感じた。

化学反応の学習でも、朝顔の花を絞った汁にリトマス試験紙を浸すと色が変わるというのは確かに面白いが、それだけでは、化学が個別の現象の暗記ものになってしまう。それよりも、化学反応というのは分子と分子が衝突して、分子を作っている原子同士のつながりが切れて、別のつながりが出来て、新しい分子が誕生する変化(A-B + C-D → A-D + C-B)なのだ、と教えた方が子供たちの考えは大きく広がる。具体的な化学反応について、分子模型を用いて教えれば、学習効果を上げることが出来よう。根本原理の様な難しいことは、小学校や中学校では教えられないなどと言わないで、先生方に努力して頂きたい。この分野の根本原理は自分には難し過ぎると思われた時には、外部の専門家の出前授業を活用して欲しい。本当の専門家は、自分の専門分野の真実を専門家でない人にも分かるように話す能力を持っているのが常である。

一般に、根本原理を学ばせようとすると、多少時間がかかる。私が小学生の頃は、先生が夜の宿直もしておられたので、夜、宿直室に遊びに行って、先生に難しいことをゆっくりと教えて頂いたり、先生の家庭訪問のときに、親と一緒にお話しすることもあった。先生と生徒の間の親近感・信頼感は、教室だけでなく、こういう機会を通しても、少しずつ強まっていったように思う。先生も、生徒に魅力のある教師になろうと、放課後に一緒に野球やドッジボールをするなど、いろいろと努力をしておられた。子供が、先生を好きになるのは、あくまでも個人的感情である。生徒がある先生を好きになれば、先生もその生徒を好きになる。これも至極当然の個人的感情で、心の交流であるが、同時に他の子供から依怙贔屓と思われることがある。あの先生は、あの子に贔屓している、というような話は昔も一杯あった。贔屓されていると言われるのは、大体、意欲が高くて、出来の良い子供が多かった。問題は、それを単なる個人的感情に終わらせないだけの教育的配慮がなされているかどうか、ということである。先生を好きだという子供の期待に応えてやることで、意欲と学習のレベルを一段と向上させることが出来るのであれば、子供の能力を最大限に伸ばすという教育の根本原理、すなわち教育の真実にかなう行為だと私は思う。ただ、それによって、その子供以外の子供に対する先生の愛情が希薄になるようなことがあってはならない。真実に基づく言行は、あくまでも、晴れた日の太陽のごとく偏りなく公明正大になされなければならないというのが、四つのテストの基本である。同時に、先生の支援でその能力を最大限に伸ばすことが出来た子供が、その効果を何らかの方法で他の子供たちに波及させることが出来るかどうかも、重要な点である。特定の先生と生徒の間の好意と友情の深まりが、出来るだけ多くの生徒の役に立つ形で進行していくべきであるというのも、四つのテストの精神である。

ただ、一つのクラス内の生徒の能力や習熟度の分布があまりに広いと、ここで述べたようにして四つのテストの精神を生かすことはかなり困難である。経済協力開発機構(OECD)の国際的な学習到達度調査(PISA)でトップの成績をあげたフィンランドでは、中学校で成績の低い生徒は特別学級に振り分けられるか、補習授業を受けていることがあるという。これにより、学力の低い生徒の学力を上げるだけでなく、優秀な生徒にはそれ相応の特別な教育を行うことが出来て、全体の学力を上げることが出来る。能力の低い生徒にレベルの高い授業を押しつけるようなことをしないので、先生にも生徒にもゆとりが出来て、教育効果が上がるわけである(参考文献3)。

原級留め置き制度の真実(参考文献4)

ここで、教育の根本にかかわる問題の一つとして、原級留め置き制度に少し触れて置きたい。義務教育には、年齢主義と課程主義という二つの考え方があって、前者は習熟度にかかわらず年齢が上がれば進級し卒業していくというシステム、後者は、ある程度の習熟度に到達していない場合は、一定の卒業年齢の上限を決めたうえで、正規の年数を超えて学習をさせるシステムである。日本は原則的に年齢主義をとっていて、義務教育はもちろんのこと高校でも原級留め置きはあまり無い。

フィンランドでは、高校に進学できるかどうかは、中学卒業時の成績で決まり、自分で卒業成績が低いと思えば、もう一年余計に中学へ通うことも可能である。その場合、「落ちこぼれ」と言われるどころか、むしろ「長い期間、勉強した」というとらえ方をされるということである(参考文献3)。日本の落第というイメージとは大きな違いである。フランスでは義務教育は6歳から15歳までで、小学校が5年、中学校が4年、病気などで長く休んだ時には親が希望して原級留め置きにしてもらうことがある。逆に、成績の悪い子供は、学校の方が進級させてしまう。原級留め置きは、それによって効果が上がるということが、はっきり分かっている場合にだけ行われる。効果の無い原級留め置きは無意味だというわけで、これも、日本で考える原級留め置きとは少し意味が違う。日本の高校では、原級留め置き率の高い学校ほど中退率も高いというデータは、原級留め置きは効果の期待できる場合にのみ行うべしというフランスの考え方の正しさを実証している。

筆者が家族とともにアメリカに住んでいて、長男が小学校6年生を終えて中学校に進学という時に、先生から相談があって、英語力が十分でないので、小学校6年生で1年留め置きになった。これも、フランスとは少し状況は違うが、英語の出来ない子供を中学校に進級させて、専門別になった授業を受けさせるよりは、授業内容の易しい小学校で、もう少し英語の勉強をさせた方が、効果的だという判断であったと思う。この小学校はマサチューセッツ州立大学教育学部付属の学校で、大学院学生がサブティーチャーとして1クラスに2人程度配置されていて、原級留め置き生徒に対しても十分な配慮の出来る、まさに、ゆとりのある教育環境であった。原級留め置き制度の真実、根本原理は習熟度の低い生徒の学習意欲と習熟度の向上であって、成績の悪い生徒に対する処罰ではない。その根本にかかわる目標を達成するための制度の運用にはいろいろな選択肢があると思うが、少なくとも、ただ原級留め置きにするだけではあまり意味が無いことは明らかである。日本の学校教育はこの点にもう少し配慮して、この制度をもっと有効且つ明るい雰囲気のもとで活用するべきであると考える次第である。

四つのテストでゆとりのある社会を

OECDの国際的な学習到達度調査(PISA)でトップの成績をあげたフィンランドは週休二日制であり、授業時間も日本よりかなり少なく、また、「総合的な学習」に相当する時間は日本より多く、「ゆとり教育」に近い内容である(参考文献3)。我が国がPISAの成績が良くなかったことで、単に成績の上下関係だけに気を取られて、総合的な学習とゆとり教育から遠ざかり、授業時間を増やして知識の詰め込みを図り、生徒が自分で学習する時間を奪おうとしている現状は、何か間違った方向に進んでいる気がしてならない。知識の習得を主流とする授業をいくら増やしても、学校の外でも一人で勉強する子供を育てるのでなければ、子供の学力は向上せず、国の底力は萎えていく。総合的な学習の時間は、生徒が他の生徒と力を合わせて主体的に学習に取り組む姿勢・習慣を育てることを目標として始められたもので、子供に独力で学習する切っ掛けを与える重要な授業である。ゆとりの時間は子供たちが独りで勉強するために、なくてはならない大事な時間なのである。ゆとりの時間は、生徒・学生だけでなく教員にも必要である。放課後生徒と語り合う時間も無いような状況に教師を置いて、立派な教育が行えるはずがない。ここでも、教育の真実が問われている。

少し変わった話しになるが、独立法人化以前の国立大学では、教員が公務で外国出張した時に、現地で休暇を取ることは許されていなかった。その機会を外すと2度と訪れることが出来ないかもしれない素晴らしい美術館、博物館や名所旧跡が出張先のごく近くにあって、ぜひ訪れて教養を高めたいと思っても、あきらめて帰らざるを得ない。これが教育の世界の真実に合致しているであろうか。単なる寛容ではなくて、公正な寛容度が適用されてしかるべきケースと考える。外国出張した教員が、たとえそれが出張の目的と直接かかわりの無い行為であったとしても、美術館、博物館を訪ねて教養を高め、その後の教育活動の糧とするのは、教育基本法第一条 の「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」という日本の教育の目的にかなう行為である。単なる杓子定規な法律の適用であればコンピューターでも出来る。法の適用という行為にも公正な寛容度が適用されてしかるべきと筆者は考える。法の適用に寛容度が無ければならないというのは、一見矛盾したことを言っているように聞こえるかもしれないが、そうではない。四つのテストを持ち出すまでもなく、社会における言行は、真実、すなわち根本原理に従って、公正に行われなければならない。ところが、真実や公正の意味するところは、その社会や人によって、また時代によっても、若干違うのが普通である。決してただ一つ、あるいは全ての社会で同一ではない。したがって、寛容度なしには、真実に合致した行為は実行できない。このような複雑で多岐にわたる問題を議論する場が日本の社会にはあまり多くはない。特に、こういうことを公共の議論に供するには、議論に参加する人達の大部分が、議論が物事の根本原理に従って公正に行われ、その結果が出来るだけ多くの人達の間の好意と友情を深め全ての人たちの役に立つかどうかを、きっちりと判断できる能力を持っていることが必要である。こういう場が機能しないと、法律一辺倒で、上記の博物館、美術館訪問の様なことは、「どのような理由があってもしてはいけない」という無難な対応しか出来ない寛容さとゆとりに欠ける社会になってしまう。四つのテストは、豊かでゆとりのある社会を築き上げるためには、生活の知恵を如何に機能させるのが良いかを考えるうえでも、極めて有用なものであることを述べて筆を置く。

参考文献

(1)畑田耕一、林義久、澁谷 亘「道徳的能力と想像力」(2009年2月5日公開) 
  http://culture-h.jp/hatadake-katsuyo/dohtoku-sohzoh.pdf

(2)ロータリー手続要覧2010、110頁 http://www.rotary.org/RIdocuments/ja_pdf/035ja.pdf

(3)ゆとり教育、Wikipedia
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%A8%E3%82%8A%E6%95%99%E8%82%B2#cite_note-44

(4)畑田家住宅活用保存会主催、羽曳野市・羽曳野市教育委員会後援、大阪大学総合学術博物館協賛、教育フォーラム「これからの教育―変えねばならないこと、変えてはならないこと」(2010.11.14)報告書(2011年畑田家住宅活用保存会ホームページにて公表予定)

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