大阪大学名誉教授 畑田耕一 大阪府教育委員会文化財保護課主査 林義久 1.はじめに 国の登録有形文化財建造物の登録件数は、2005年9月末現在で5130件、2152箇所に達し、10月6日には文化庁の主催で5000件突破記念シンポジュウムが、東京大学大講堂(登録文化財安田講堂)で盛大に行われた。この登録件数は、明治から連綿と蓄積保存されてきた国宝や重要文化財のような国指定文化財の総件数を上回ったことにもなる。これらのうち、大阪府の登録文化財の登録件数は326件、129箇所(以下所有者数とする)と全国でも最多であり、これをきっかけとして「大阪府登録文化財所有者の会」(略称:大阪登文会)も設立された。この機会に大阪府の登録有形文化財建造物の内容を少し詳しく眺めてみたいと思う。 2.登録有形文化財建造物概観 文化財の種別、年代、設計者、様式(和風・洋風)、構造、をまとめたのが表1である。各項目の総数が所有者の総数より多い場合や少ない場合があるのは、同一箇所の文化財中に複数個の異なる建造物のある場合、同一所有者の文化財が2度に分けて登録された場合、記録だけでは属性がすべて明らかでない場合があるためである。 2.1 種別 種別では住宅が圧倒的に多い。3次産業に使われた、あるいは現在も使われている建造物と宗教建築がこれに次ぎ、文化福祉関係、学校、2次産業、と続いている。 |
表1 大阪府内登録有形文化財の所有者別登録件数
種別 | 建築年代 | 設計者(建築家) | 様式(和洋) | 構造 | |||||
住宅 | 65 | 江戸 | 32 | ヴォーリス | 4 | 和 | 70 | 木造 | 84 |
産業1次 | 1 | 明治1−10 | 7 | 安井武雄 | 1 | 洋 | 41 | レンガ造 | 6 |
産業2次 | 7 | 明治11−20 | 2 | 渡辺節 | 2 | 和洋 | 8 | RC造 | 11 |
産業3次 | 23 | 明治21−30 | 5 | 河合浩三 | 1 | SRC造 | 2 | ||
学校 | 10 | 明治31−40 | 7 | 武田五一 | 1 | コッテージ風 | 1 | ||
文化福祉 | 12 | 明治41− | 13 | レーモンド | 1 | タイル張り | 1 | ||
宗教 | 16 | 大正 | 44 | 辰野ー片岡 | 2 | 看板建築 | 1 | ||
生活関連 | 1 | 昭和1−10 | 46 | 矢部又吉 | 1 | 石造 | 2 | ||
交通 | 4 | 昭和11−20 | 10 | 吉田種次郎 | 1 | 茅葺 | 3 | ||
治山治水 | 3 | 昭和21−30 | 2 | 山川逸郎 | 1 | モーラ式構成網 | 1 | ||
その他 | 2 | 昭和31− | 0 | 伊藤平左衛門 | 1 | ||||
アメリカ屋 | 1 | ||||||||
池田屋事務所 | 2 |
2.2 建築年代 建築年代では、昭和1~10年のものが最多で、大正時代のものとほぼ同数、明治時代のものが意外に少なく、江戸のものが明治とほぼ同数登録されている。つまり、明治の末期から昭和の初めにかけての建築が大量に登録されていることになる。登録制度設立の趣旨の一つが、近代(明治・大正・昭和戦前頃)の建造物等の保存活用であるので、この結果は当初の目的にほぼ叶っていることになる。しかし、戦後60年を迎えた今日、終戦前後20年間余りの特徴ある建築の保存にも意を用いる必要がある。1989年に近代運動に関する建築、敷地、環境の資料化と保存の国際組織として、オランダで設立された「ドコモモ」(DOCOMOMO=Documentation and Conservation of Buildings, Sites and Neighbourhoods of the Modern Movement) の日本組織である「ドコモモ・ジャパン」では、日本におけるモダニズム建築100を選定している。大阪府では7件が該当し、そのうち1件(大阪ガスビルディング)が登録文化財になっているのみである。今後は、これらの貴重な建築の登録が行われるべきであろう。 明治の建築が意外に少ないのは、明治20年頃までは大阪では本格的な洋風建築が建てられなかったことと、第二次大戦の空襲で木造建築がかなり焼失したことによる。 大正12年の関東大震災の影響も見逃せない。登録文化財の第1号で後に重要文化財になったコニシ株式会社の木造町屋建築は、明治36年に建設され、当初は一部3階建であったが、関東大震災後に危険との判断から、3階部分は撤去されている。しかし、大阪の歴史都市としての中核ともいえる船場地域、特に堺筋を中心とした北船場は、今も近代の大阪を色濃く残す部分であり、少なくなったとはいえ、第二次大戦を免れた企業所有の煉瓦、石、鉄筋コンクリート等の建築はまだ残っている。登録文化財制度を活用して、中之島の景観と一体化する形で大阪の近代を伝える歴史文化ゾーンとして点ではなく面的な整備ができれば素晴らしいと思う。 2.3 建築様式・構造 和洋の建築様式別では、約70%が和風である。残りが洋風あるいは和洋折衷あるいは融合型であるが、これらもかなりのものが木造建築である。この傾向は、個人の住宅が多いことによるものであろう。建築構造は約80%が木造で圧倒的に多く、鉄筋あるいは鉄骨・鉄筋コンクリート造りが約10%、レンガ造りや石造りは少ない。 登録されている茅葺建築は非常に少ない。しかし、府の周辺部では茅屋根を鉄板で覆った民家は相当数残っており、特に高槻市郊外などにはこのような茅葺建築がまだかなり存在する。日本の美しい原風景を思い浮かべる時、鉄とコンクリートのみの都市景観ではない、周辺部に残るこれらの建築を保存活用するための知恵が必要である。たとえば、建築基準法や消防法に抵触していても、他の方法で安全性を確保するような法律面での手立て・工夫も必要であろう。 木造3階建ての看板建築である宇野薬局、木造4階建てで特異な意匠を持つ旧是枝近有邸、モーラ式構成網という特殊な金網を用いたコンクリート造りの天理教北坂分教会教職舎など、構造上特色ある建築も多い。石と煉瓦を交互に用いた外観意匠の水道記念館は高潔な建築家と呼ばれた宗兵蔵の設計で、大正3年に建設されたネオルネッサンス様式の建築である。大阪市水道の主力ポンプ場施設として活躍したが、現在は水道の歴史や淀川の自然を紹介する展示館として開放されている。石と赤煉瓦の組積造風の外観を持つ河村商店なども現在では少なくなった建物である。
2.4 建築家・設計者 建築家や設計者が明らかになっているものは少ないが、ヴォーリズ設計のものが4件、渡辺節、辰野片岡建築事務所のものが各2件、武田吾一、安井武雄、山川逸郎、レーモンド、矢部又吉等が各1件である。 大阪における近代の、特に本格的洋風建築の始まりは明治4年の造幣寮の開業であり、現在、重要文化財に指定されている泉布館や旧造幣寮鋳造所正面玄関がある。設計はウォートルスである。その後、明治20年頃までは明治7年に江之子島に建てられたキンドル設計の大阪府庁舎が目を引く程度であったが、今は存在しない。明治30年代に入ると大阪の洋風建築は急激に増加し、その中では明治37年に野口孫一の設計になる重要文化財大阪府立図書館がある。現在登録文化財になっている洋風建築は、大正時代以降のものが多い。設計者の技術が秀でており、最も大阪らしい建築としては、渡辺節の設計になる昭和6年の日本綿業会館である。この建物は、大阪が綿紡績で英国のランカシャーを抜いて世界一となり、「東洋のマンチェスター」と呼ばれた時代、昭和6年に東洋紡役員の寄付をもとに建てられた。当時の金額にして、同時期建設の大阪城の約3倍の建築費を要したという豪華な造りである。しかし内装の豪華さに比べて外観は質素で控えめなもので、当時の大阪人の気質がよく現れている。なお、綿業会館本館は平成15年12月25日に重要文化財に指定されている。 3.登録有形文化財と日常生活とのかかわり 登録文化財は京都や奈良にあるような多くの古い指定文化財のように、歴史上の為政者や社寺の遺構とは異なり、身近な所で現在も使用されているものが多い。これらが日ごろの生活のなかでどのように使われているかを、表1の種別のそれぞれの項目についてもう少し詳しく眺めてみたい。 3.1 住宅 住宅あるいは住宅と他の目的に共用する建物として登録されているもの65件の年代を調べると、江戸時代のものが最も多く、大正、昭和1~20年がほぼ同数でこれに続き、次が明治である。昭和21年以降のものは1件しかない。 建築様式では、75%が和風建築である。残りの洋風または和洋折衷式のすべては、大正または昭和初期に造られている。構造的には9割以上が木造で、僅かに鉄筋または鉄骨鉄筋コンクリート造りがある。建物のタイプは、農家が最も多く、商家がこれに次ぐ。酒造、味噌・醤油製造やガラス製造などの生産工場を持つ住宅や近代町屋もかなりある。 第二次大戦末期の焼夷弾等による被災は、大阪市の中心部が最も大きかったが、周辺部にはまだ江戸時代からの大型農家や町屋が残っている。これら江戸時代頃までの伝統技術により造られた木造建築は、戦後の住宅政策の中での量的供給に従った木造住宅とは異なり、太い柱と成の高い鴨居によって、強固且つ柔軟に組まれ、壁面は丁寧な施工による壁下地と漆喰土壁で固めた躯体に、重量のある日本瓦で葺かれた屋根で覆っていることから、地震、台風、あるいは延焼火災等の災害にも比較的堅牢である。また、木造の民家建築は一見して同じようなものとして見られるが、個々の建築は所有者にとっては自らの人生とともに歩んだ器であり、先祖から引き継がれた貴重な遺産でもあることから、個人にとってはかけがえのないものであると同時に、地域の歴史的景観の一部ともなり、登録文化財として次代に継承する価値が高い。たとえば、堺市の中南部に所在する兒山家住宅は、最近では少なくなった豪農の屋敷構えをもち、江戸期は代官、明治期は銀行として殖産興業の発展に貢献、現在では留学生のホームスティや文化活動に活用されている。また、柏原市の旧奈良街道に面する寺田家住宅は、江戸時代以来長く庄屋兼問屋として商業活動も行ってきたが、明治天皇の大和行幸に際して、皇后主従の休憩所となるなど、記念すべき歴史を刻んでいる。 3.2 産業に関わる建物 2次産業に関わる建築としては、大正初期に輸出品として急成長したセルロイドを加工する組合が、昭和12年に建設した大阪セルロイド会館を除いてすべて和式の木造建築である。また、3次産業に関わる建物23件のうち住宅と合体したもの7件はすべて明治以前の建造物を含む和風木造建築である。一方、残りの産業に関わるもののみで構成されている建築は、殆どすべて大正から昭和10年頃にかけて造られたもので、大部分が洋風の建造物である。たとえば、旧川崎貯蓄銀行福島出張所として昭和9年建設され、現在はミナミ株式会社としてアパレル関係の店舗に使われている建築は、2.4節で述べた矢部又吉の設計である。少し前まで都市においては駅前の一等地では、必ずといってよいほどにギリシャ・ローマ建築の重厚な意匠を取り入れた銀行建築、いわゆる様式建築が見かけられたが、銀行の合併・再編等が進む中で取り壊されて寂しくなってしまった。このミナミ株式会社の建築は比較的小規模であるが、正面は道路に合せて円弧を描き、立体的な細部意匠をより華やかに纏め上げた秀作である。 2次産業に関わる建築で和風のものは、宇野薬局、南天苑本館、西條合資会社旧店舗の三つで、このうち、宇野薬局は昭和初期の和洋折衷商家の特徴をよく表している建築である。南天宛の本館は、大正2年に堺市大浜に建設された「潮湯」を昭和10年に移築したものであり、設計は辰野片岡建築事務所による和風の珍しい作品である。西條合資会社旧店舗は、豊臣秀吉が賞賛したと伝えられ、天野山金剛寺を起源とする天野酒の醸造を行う造り酒屋で、酒屋の店舗等に活用されている。 3.3 学校 学校関係の登録文化財は10件である。旧岸和田村尋常小学校が明治末期の建設である以外すべて昭和1~10年の建造物で、鉄筋コンクリートの洋風建築が多い。これらのうち、国公立大学施設としては、大阪大学共通教育本館、大阪市立大学本館がある。大阪大学共通教育本館は昭和4年に、もと旧制浪速高等学校校舎として竣工した鉄筋コンクリート4階建の校舎であり、ネオゴシックを思わせる細部意匠に特色がある。大阪大学豊中キャンパスの最も高い位置に建ち、総合学術博物館としての文化施設として、或いは大学構内の景観を引き立てる施設として保存活用している。大阪市立大学本館は、市立大学の前進である大阪商科大学学部本館として、昭和9年に竣工した鉄筋コンクリート3階建の校舎である。昭和初期の近代モダニズム建築運動を背景として、大阪市の建築課により設計され、大学の歴史を物語る施設として現在も使われている。学校は文化伝承の重要な拠点の一つである。たとえば、古い木造建築の建物が教科書やオルガンなどの文化財とともに残っているものも未だ多いと思われるので、建築とともに離散消滅しないうちに保存に努めねばなるまい。学校が木造建築であった時代は決してものが豊かではなかったが、先生は尊敬され、現在生じているような登校拒否や暴力沙汰もなく、木造教室で先生の足踏みオルガンを弾きながら生徒が合唱する光景にも、古きよき日本があったのではないか。 3.4 文化福祉関係の建物 四天王寺八角亭、住吉神社能舞台、大阪倶楽部、岸和田市立自泉会館、水道記念館、大阪城天守閣、源ケ橋温泉、美章園温泉それに2.4節で述べた綿業会館本館など文化福祉関係の建物も、大正から昭和10年にかけて建設されたものが多い。建築様式は洋風が多いように思われる。この中で、四天王寺八角亭は、明治36年に大阪市天王寺区で開催された第五回内国勧業博覧会の奏楽堂とされた八角平面の小さな建物であるが、窓に色ガラスを使うなど博覧会の華やかさを思い起こさせる建築である。この博覧会は大阪が近代都市へと変化する大きなイベントでもあった。住吉神社能舞台は、中央区本町橋に設置された大阪初の博物館である「府立大阪博物場」に、明治31年能楽界の篤志家の寄附によって建設された大阪最古の上質な能舞台である。大阪倶楽部、岸和田市立自泉会館、綿業会館などは、大正から昭和にかけて、大阪の財界や紡績関連の企業関係者の社交場として建てられたクラブ建築であり、安井武雄、渡辺節など大阪の近代を代表する建築家の設計になる。 3.5 宗教関係の建物 宗教関係の登録文化財は大正、昭和期の建設物件が多い。天保13年建立の念仏寺本堂は、上町大地の北寄りで上町筋に西面しており、この地が寺町であった頃の歴史的景観形成物件としての価値が高く、登録文化財への登録前に、奈良県から仏堂専門の瓦職人を招いて屋根替修理を行っている。特に寺院、神社の建築については、江戸時代の初期の頃までは指定文化財として保存されているものが多いが、江戸時代の中期以降から幕末にかけての物件は、府内にはまだ相当数残っている。これらの建築は、祭りや行事を通じての地域住民のコミュニティーの要であり、また、これらの施設がある寺院境内、鎮守の森等の神域には、年数が経過した大樹や植栽等による緑が充実している場合が多いことから、緑の少ない大阪府こそが、建築とともに寺院や神社の緑環境を保存活用することは、住民の心の拠り所の確保と歴史遺産の保存、災害時の避難地の確保としても是非必要なことと思われる。 3.6 交通関係の建造物 交通関係の文化財は4件、橋と駅舎である。橋としては、現在唯一の登録物件である大和川に架かる玉手橋は、近鉄玉手山遊園地への往来に架けられた、日本最多径間である5径間の吊橋で、子供を対象とした遊園地への導入と周囲の景観に配慮したかわいい意匠である。 高度経済成長期に高速道路網の充実や駅前整備によって都市は飛躍的に利便性を獲得したが、一方で、どこの駅に降り立っても、どの町に行っても同じ風景、同じ景観という個性を失ったような町が多くなって久しい。近年はその反省に立ち、少しは個性的な町についての検討もなされつつあるが、一度失ったものは元にはなかなか戻らない。幸いにも明治40年に辰野片岡建築事務所の設計になる南海電車の浜寺公園駅舎や、大正8年建設の諏訪ノ森駅舎、並びに大正15年に建設された水間鉄道の水間駅舎が登録文化財として生きていることは、非常に稀有な事と言わざるをえない。ただ、南海本線沿線は近年鉄路の高架化が進んでおり、登録駅舎については新駅舎の建設や移築の話も聞こえてくるが、是非知恵をしぼって、新しい駅舎に古い駅舎を取り込むような形で、登録文化財駅舎の活用や新しい施設との共生を検討していただきたいと思う。 4.登録有形文化財建造物の年代別特徴 次に、少し視点を変えて、登録有形文化財をその建築年代という切り口から眺めてみたいと思う。 4.1 江戸 先ず、江戸時代に建てられたものは32件中28件が住宅で、すべて和風の木造建築である。都市部にありながら、茅屋根を維持している大和棟民家の好例であり、和菓子店の店舗としても活用されている桃林堂板倉家住宅、紀州街道沿いで蔵を資料館にしている老舗の漢方薬局「片桐棲龍堂」、江戸時代に油屋、金融業を営んだ吉村家住宅、江戸時代より庄屋や大庄屋を勤めた旧家で、広大な敷地の外周に塀と水路を廻らせた中山家住宅、3.1節で述べた豪農の住宅である兒山家住宅、江戸時代に醤油製造を業とした商家の岡本家住宅など特徴ある建物が多い。島下郡14箇村の大庄屋を勤めた中西家住宅は江戸時代の上層民家の好事例で、長屋門西に続く細長い建物のキララ小屋は農作業で使う丸太などを収納するもので、土塀の役割も兼ねている。 4.2 明治 明治1~10年の屋敷を構成する登録文化財は主屋だけ残る長谷川家住宅のみであるが、他にこれ以降の年代に造られた主屋を含む複数棟から構成される文化財が6箇所ある。住宅のほかに2次産業および3次産業との混成建築が1件づつ登録されている。すべて木造建築である。明治11~20年代の文化財は畑田家住宅のみで、主屋、長屋門など6件が登録されている。畑田家住宅は小学生を中心とした次代を担う子供たちに、ノーベル化学賞受賞の白川英樹博士はじめ様々な分野の著名な研究者によるわかりやすい講義、一般公開による庄屋屋敷として日本の住文化の紹介、講師との話し合いに十分な時間をとった文化フォーラムや音楽会などを通じて、地域の文化の泉としての活動を行っている。 明治21~30年代の建物は5件、すべて和風の木造建築である。住宅以外に2次産業および3次産業に関わる建物が登録されている。 明治31~40年の建造物は7件、住宅のほか学校、文化福祉、宗教、交通関係の建物が登録されている。すべて木造であるが、洋風建築(3.5節でのべた南海電気鉄道南海本線浜寺公園駅舎)が1件初めて出現する。日本は明治の文明開化により、急速に外国の文化を導入して洋風化を進めるが、その根底に江戸時代まで培われてきた優秀な技術があったからこそ外来の技術がうまく導入できたのであって、技術立国としての日本の優秀性がみてとれる。昭和初期になると一般の住宅においては、玄関脇に接客用の応接間として洋室を設けることが流行するが、ここにも木造建築に精通した職人の器用さを見ることができる。 府内の登録文化財第1号で明治36年建設のコニシ株式会社(旧コニシ儀助商店)のうち、主屋、衣装蔵、二階蔵は、平成13年6月15日重要文化財に指定されている。 明治41~45年建築のものとしては、いろいろな種別の建物が13件登録されている。大部分が和風の木造であるが、玄関、窓廻りの意匠に特徴のある北浜レトロビルヂィングなど、煉瓦造りの洋風建築が2件ある。また、近代河川景観の様を伝える明治期の煉瓦造構造物「築留二番樋」が登録されている。平成16年度から府の教育委員会では、府内の「近代化遺産(近代産業遺産)建造物等総合調査」を実施中であり、平成18年度には報告書が刊行される予定である。この調査は、鉄道施設、港湾施設、河川施設、灌漑施設等の産業土木施設の調査を含むことから、調査の完了後は、土木分野での登録有形文化財候補の発見が期待される。近代産業遺産の大半は、指定の社寺建築のように意匠や技術等での評価ではなく、どちらかといえば、日本の近代化の礎となった記念物として、また、その地域がある時期特定の産業で栄えた証として、その歴史性の評価が大きな部分を占めている。 4.3 大正 大正時代の建物の登録件数は44件、昭和1~10年の46についで多い。内訳は住宅20、三次産業8、文化福祉4、宗教6、交通2、住宅と2次産業混成3、住宅と3次産業混成3である。建築様式で洋風が和風を上回っているのがこの時代の特徴である。登録文化財中の和洋折衷様式の大部分が大正時代の建築であるのは興味深い。構造は木造が多いが、他に煉瓦造、鉄筋コンクリート造などがある。2.3節で述べた水道記念館や河村商店などの石と煉瓦の組み合わせはこの時代の建築である。また、登録されている教会6件中4件が大正時代の建築である。大正期の上層の住宅の様子がよく分かる洋館と和館がそろった田尻歴史館、時計塔を持つ外観が時代の特徴をよく表している生駒時計店など特徴ある建物も多い。 また、廃娼の立場からは、負の遺産と呼ばれるかもしれない鯛よし百番は、もと遊郭建築であったが、今は和風料理店として活用されているユニークな建造物である。4.4 昭和 昭和1~10年の登録件数は2.2節に述べたように46と最多である。内訳は住宅16、二次産業1、三次産業7、学校9、文化福祉5、宗教4、交通1である。建築様式は大正時代とは逆に和風が多く、構造も7割程度が木造である。この時代の特徴は、登録件数が非常に多いこと、登録されている学校10件中9件がこの時代の建築であること、昭和天皇の即位大礼の饗宴場に使われた宮殿建築の一部(千里寺本堂と歓心寺恩賜講堂)が2件登録されていることであろう。昭和6年建設の大阪城天守閣は市民の寄付で博物館として建設されたシンボル的建築、洋風の外観を持つ公衆浴場の源ケ橋温泉浴場は昭和初期の木造2階建ての建築であり、当時2階部分はビリヤード場として使われており、風呂に入ることが娯楽の一部分とみられていたようである。正面の玄関庇上には向かい合ってアメリカ合衆国の象徴となっている自由の女神の小像が飾られており、大阪における銭湯建築の好例として、庶民文化の一端を垣間見ることができる。寺西家阿倍野長屋はコンパクトな延床面積の中に、風呂、台所、便所、座敷等の機能を備えた当時としては上質な借家住宅であり長屋建築の好例である。4軒長屋としての特色から現在は和、洋、中のレストランに活用されている。岸和田の地名の由来という説のある和田家住宅は外から中は見通せないが、広い敷地に木造の2階部分はお城の塗り込め壁のように纏めた重厚な邸宅であり、城下町の風格ある建築の例である。 昭和11~20年になると登録数は10件と急に少なくなってしまう。内訳は住宅4、2次産業1、学校1、文化福祉1、宗教2、住宅・2次産業混成1である。なお、これらのうち、学校は、モダニズム色の強い昭和初期学校建築の好事例といわれる四条畷高等学校本館で、昭和9~11年にかけて建築されている。この期の鉄筋コンクリート建築は、高度経済成長期の建築とは異なり、材料については、塩分のない川砂、円い形状の川砂利を使用し、仕様書通りの水量でコンクリートを煉るなど丁寧に施工されている。この四条畷高等学校本館も、先の阪神震災で亀裂一つ入らず無事であった。 建築物の構造は木造が大部分であるが、建築様式は和風と洋風が相半ばする。昭和20年以降の登録はわずかに2件、京都東本願寺の建築や靖国神社本殿を建設した第11世伊藤平左衛門が手がけた大規模な木造仏堂である大念仏寺本堂と、持送り付きの大きな水切瓦を廻した大道旧山本家の2階建て土蔵がある。 5.終わりに 以上、平成17年9月までに登録された大阪府の登録有形文化財建造物を概観し、その一部を解説した。これらは、平成8年10月の登録制度の開始以降9年余りの間に登録された物件で、大阪の、特に近代を中心とした姿を十分に表現しているとは言えないにしても、概ねその傾向はつかめる。また、登録文化財は指定文化財のように厳選して一部の物件を取り上げるものではないから、多種多彩で同種の建造物が複数含まれていることにも気づかされる。さらに、個々の登録文化財は多くの指定文化財のようにそれほど古くはないし、平凡な意匠のものも多い。特に木造の民家建築のように、一見すると同じように見られがちであるが、3.1節でも述べたように、個々の建築は所有者にとっては自らの人生とともに歩んできたものであり、先祖から引き継いだ貴重な遺産である。そして、その建築の誕生の経緯やその後の出来事、事件等は、時代が比較的新しいことから資料が多く残されていることに加えて、何よりも現在の所有者や管理者がよく記憶しているところにも特色がある。 ビル建築のような大きな物件で特徴的なものは、普段われわれが街角で目にする親しみのある存在であり、人によっては良くも悪くも思い出の建築、場所であるかもしれない。街の風景の大きな部分を占める建築は、建てられた当初は物であっても、長くその場所に存在することにより、様々な人間の精神活動に係わり、もはや物を超えた一面をもつ存在になっている。したがって、それらを所有し管理する企業等は、建築を単純に現時点における一企業の消費財(物)としてとらえ、経済性と利便性のみで解体除却することについては極めて慎重でなければならない。たとえ法的には文化財になっていなくとも、一定の公共性が誕生し付加されていると解釈ができるのである。解体除却の理由としてよく使われる耐震性の問題にしても、4.4節でも述べたように、高度経済成長期に大量に造られた鉄筋コンクリート建築に比べて、戦前のコンクリート建築の強健性が指摘されている。もし耐震的に問題がある場合でも、一部の構造的補強等の工夫によって解決できる部分は多々ある。要するに老朽化や耐震性(安全性)を解体除却のための隠れ蓑にするのではなく、物に秘められている歴史性を重く捉え、古いものの価値を評価して大切に考える、そして後世に伝えて行こうとする見識、理念の問題のように思われる。 最近は各地でレトロブームに便乗して、芝居の書割のような作り物をよく見かけるが、オリジナルの歴史遺産に勝るものはない。日本では観光振興と結びついて世界遺産がブームであるが、その世界遺産においても、選定に至る重要なポイントは、そのものにオリジナル性(真実性)があるかどうかという部分である。リアルに人間の生活・歴史を、具体的に実見・体感できるものが、本物である歴史的建造物であり、外から訪れる人々は、本物の建築の持つ魅力と、その背後にあるストーリーを知ることにより感動を覚える。そしてそれが結果として観光に強く結びつくのであり、今一度、古くとも本当の物がもつ価値を見直すべきであろう。 日本列島は周りを海で囲まれ、四季というそれほど厳しくはないが変化に富む気候のもとで、人は緑深い自然と美しい水に恵まれて豊かな文化を育くんできた。衣食住の中での住としての木造建築文化などはその最たるものの一つである。このような住文化によっても日本人のアイデンティティーは確立されたのであり、たとえば座敷における立ち居振る舞い一つにも、日本人としての形がある。しかしながら、明治以降の日本は、欧米先進諸外国に追いつくべく工業化を進展させ、近くは第二次大戦による都市の廃墟を立て直すべく、日本人の勤勉かつ器用な部分も活用して、経済成長を成し遂げ、今では世界に冠たる技術立国となった反面、一昔前のゆったりとした時間の流れは失われたかのようである。また、今なお続く経済効率性の追求の結果として、物質的には豊かになったが、ふと気がつくと精神面では非常に多くの憂うべき事件や事象が起きている昨今である。今こそ、長い歴史に培われた日本の伝統文化を見直す中で、その一つとしての、日本人と伝統建築との関わりについての再検証が必要であり、それを、次代を担う子供達に伝える必要がある。そのためにも、現在残されている歴史遺産を失ってはならない。 ところで、歴史的建造物を維持管理している所有者の立場からは、古い建造物は年数を経ているがゆえに、その風貌は汚れて痛んでいることがある。一部にはこの汚れた風貌に趣があるという人もいる。しかし、外部がステンレスやガラスで覆われた最近のビル建築においても、窓ふきや補修等の定期的なメンテナンスを行っているように、表面の汚れは適度に落とす必要があるし、場合によっては塗装や部分補修の必要もある。荒れた家(あばら家)状態で放置していたのではその魅力は理解してもらえないし、耐震上の強度を維持する面からも問題がある。適時に適切な維持・補修作業を行うことは、歴史的建造物を伝える所有者の立場としては大切な事である。更に、当初の用途として使わない場合は別の用途で使用・活用することも大切である。使うことが、建築を次代に生き生きと伝える最善の方法でもある。登録文化財は活用が容易な文化財である。 都市は変貌するという。しかし、古いものすべてを無くして新しいものにすることを変貌とはいわない。それでは文化は育たない。過去の積み重ねの上に現在があり、過去をおろそかにすることは現在を否定することでもある。今後も着実に登録文化財が増加し、その保存と活用によって、大阪が個性的かつ魅力的で住みよい都市になることを期待したい。 |