登録文化財「通天閣」が語りかけるものー制度発足10年に際してー(2006、12、9) 大阪府教育委員会文化財保護課主査 林 義久 大阪大学名誉教授 畑田 耕一
平成18年12月8日、第54回目の国の登録文化財の文化審議会が開催され、大阪府からは6箇所9件の登録が答申された。この中の一つが通天閣である。平成8年10月に国の登録文化財建造物登録制度が発足後、今年の10月で丁度10年になる。大阪府内の登録文化財建造物も今回の答申で157箇所409件となった。 通天閣は昭和31年10月の建設から丁度50年を経過し、登録文化財の要件の一つである50年以上の歳月を経過し、国土の歴史的景観に寄与していることから登録の答申を受けることになったが、丁度50年を経過したということで登録文化財になった建造物も珍しいのではなかろうか。 10年、50年と、区切りの数字が並んでいるが、今回の通天閣の登録は、まさに登録文化財建造物とは何で、歴史遺産とは何なのか、という事をわれわれに具体的に説明してくれているように思える。通天閣の登録文化財への登録を契機に、今一度「登録文化財とは何なのか」を考えてみたいと思う。 その理由は、登録文化財建造物登録制度が発足してすでに10年を経過したにもかかわらず、まだ多くの、あるいは一部の人たちは登録文化財も文化財であるから、指定文化財のように、厳しい規制と手厚い保護のもとにある特別な存在と考えているのではないかと思うからである。 また制度の発足後、登録文化財は指定文化財等の裾野を広げるものであること、地域の身近な文化財であること、築50年以上を経過した近代の歴史遺産を中心とするものであること、制度の趣旨は主に外観保存で内部は自由に改装できること、住民自らによる将来への保存継承に期待する制度であることなど、いろいろの説明はされてきたが、建築史を専門とする人々の中にさえ、指定文化財の指定基準の枠から抜け切れない人が居られるように見受けられる。 ところで、通天閣を所有・管理する通天閣観光は、50周年を記念する様々な催しを開催している。マスコミもこれに連動して50周年の報道記事や番組を企画した。NHKは、10月27日に「わが心の通天閣」という番組を放送した。この番組では人と通天閣に纏わる幾つかの思い出や出来事等を取り上げ、通天閣に関わる人間の生き様を紹介していた。 通天閣を守り維持管理してきた人々の思い、通天閣の展望台で結婚式を挙げて50年を経過した夫婦、通天閣が縁で就職が決定した人の回想、日々の辛い仕事の中で凛とした通天閣の立ち姿に勇気づけられた人など、わずか50年であるから当事者は生存し、されど50年も経過したことから、その人たちの顔には年輪が刻まれていた。人の半生と通天閣という建造物との悲喜こもごものかかわり合いがドラマチックに紹介されていた。 筆者らは先に、このホームページの「文・随想」欄で、わが国では都市にある近代の歴史的建造物が経済的効率性を主な理由として簡単に解体されたり、建て替えられたりする状況を述べ、建造物は建てられた当初はたとえ単なる物であったとしても、永くそこに存在して人々と関わることによって精神性が発生して物を越えた存在となるとともに、個人資産の建造物にも公共性が付加されるとして、特に企業や公共団体等における建造物の安易な解体撤去に苦言を呈してきた。たとえ、耐震性に問題がある場合でも、そのことを解体除却のための隠れ蓑にせず、一部の構造的補強などの工夫によって解体せずに問題を解決する方法を探って欲しいと思う(1)。 今回、通天閣が歴史遺産として登録文化財に登録されたことは、まさに、このわれわれの主張に沿うものである。通天閣のような特別な存在だけではなく、都市のターミナルにあるランドマーク的な建造物はもとより、小さな木造の住宅であっても職人等による手作りの建築に長く住まい続けると、使うほどに奥深い趣と美しさが生じ、その建築の存在が過去の出来事や人間の記憶を現実の社会に語りかけ、人々の感性・情緒に少なからぬ影響を及ぼしていると考えられるからである。 筆者らが先に述べたように、歴史を担い文化を語る建築が存在する環境は子供の成長にとってきわめて重要である。子供のときに見聞きしたことは、たとえ意味が分からなくてもその内容は強く脳裏に焼き付けられ、年を重ねるにつれて経験したことの意味や根本原理・哲学が分かってくる(2)。 次代の日本、次代の世界を担う子供の教育における文化財の役割の重要性はもっと強く認識されるべきであろう。 通天閣が登録されたことのもう一つの意義は、地域の人々の熱い思いにより建設されたこの建造物が、これからも、住民の力によって将来に伝えられようとしていることである。多くの国宝や重要文化財のように、その時代の一部の為政者や宗教者により建設されたものではなく、地域住民の情熱の結果として建設されたものが、今や大阪のシンボルになっているところに別の価値がある。 大阪では江戸時代以降、淀屋に代表される商人による大阪の開発や橋等の施設建設、大阪大学の基礎を築いた教育者である緒方洪庵による医学・蘭学関連施設、近代に入ると、市民の寄付を中心とした中央公会堂や大坂城の建設等、これまで、通天閣に限らず市民が度々自らの手で施設建設を行ってきた。しかし、遺されるべき物はすでになく、遺っていても遠い過去の出来事を記憶している人もなく、歴史的事実としての資料や語り伝えによってそれが造られた当時の状況を知るものも多い。 建設後50年しか経過していない通天閣の場合は、建設当時の人々が存命で、現物を目前にして直接にその人たちから迫力ある生の話を聞くことができるところに特別の価値がある。通天閣はそれが作られた当初から単なる物ではなく、当時の地域の人々の熱い思いを担う文化財であり、その後の50年の間に地域の住民やここを訪れた多くの人々によって新しい文化を付与されつつ大阪のシンボルとなり、いま登録文化財としての歩みを始めたということである。 指定文化財においては、美術の対象としての意匠の美しさを取り上げる場合があるが、登録文化財である通天閣は、東京タワーやエッフェル塔のように、裾広がりで美しく優美な姿とはいえず、直線的でずんぐりした格好である。しかし、設計者で建築構造学者の内藤多仲(ないとうたちゅう)が、「場所柄を考えて四角ばらず庶民に人気と親しみが持たれる塔とした」と述べているように、大阪、特に新世界に相応しいデザインの塔である。この事実が、大阪人の感性を刺激し、親しみが持ち続けられている理由ではないかと考えられる。この点でも登録にふさわしい地域の文化財といえる。 登録文化財は建設されてからの経過年数の短いものも多く、また、指定文化財のように特別優れた意匠や建築技術が評価されるものばかりではないが、それらに匹敵するか、あるいはそれ以上に大切なものを秘めている。それは、地域自らが愛着を感じて評価する地域の文化遺産という性格である。このような性格を持つ歴史遺産の増加は、住民と地域との結びつきを強め、今後の歴史遺産の保存活用とそれによる地域づくりの推進に貢献することは間違いないと思われる。 国の登録文化財建造物登録制度が10年をむかえた時に、建設後丁度50年を経過した通天閣が登録文化財建造物に登録されたことは単なる偶然ではなく、上に述べたようなことを、通天閣がわれわれに訴え、語りかけた結果のように思われてならない。 参考文献 (1)畑田耕一、林義久「大阪府の登録有形文化財概要」 http://www.culture-h.jp/tohroku-osaka/bun2.html (2)畑田耕一、林義久「登録文化財の活用保存と学校教育」 |