近世の南河内

大阪歴史博物館館長 脇田 修

はじめに

 私は大阪生まれですから、南河内はそれなりに馴染みのある地域でした。近くに知人がいたこともあって、道明寺には父に連れられてお参りしましたし、戦時中には、忠臣楠木正成に学ぼうということで、その史跡を訪ねて、小学校から観心寺へ参り、高学年になると金剛山に登りました。そして歴史学研究に入ってからは、この地域は後に述べるような理由で、最も重要な対象になりました。

 さて私が歴史学の研究に進んだのは、もともと歴史が好きだったためですが、また戦後になって、私たちが今まで習ってきた、いわゆる皇国史観の歴史をそのまま史実とはできないと教えられ、そのなかで正しい歴史を知ろうとしたこと、さらに旧制大阪高校で幕末外交史の権威石井孝先生から見事な日本通史を聞き、戦前からこのようにきちんとした研究があることを知ったからでした。そして京都大学の国史学に進みましたが、当時は、従来の天皇や貴族・大名を中心にした歴史にかわり、私たちの祖先である民衆の研究がおこなわれるようになり、また日本近代社会に色濃く残っていた封建的な要素が問題になっていました。そのような傾向のなかで、私は封建制を研究しようとし、その基礎である農村の状況を明らかにしたいと考えたのです。

大阪南部の綿作地帯

 歴史学では日本の近代化は、開国にはじまる外圧のなかで、上からの指導でおこなわれ、封建社会の最後の段階である絶対主義における王権=天皇制が成立し、半封建的性格の地主制が基盤になる、つまり日本の近代は、「絶対主義天皇制と地主制」を核にしているという主要な学説があり、これによれば日本近代は封建的要素がかなりの比重をしめていることは当然になります。それが戦後の改革により変容したということですが、その歴史的変遷を探ろうとして、日本近代化の特質や地主制などが、研究の重要な論点でした。

 さて大坂南部は、米穀とともに木綿・菜種や蔬菜などの商品作物栽培をおこなう豊かな地域であり、近代化の最先進地として注目されていました。そのなかで私は平野郷の調査から始めて、大阪南郊に入り、旧庄屋家である西喜連の長橋家、更池の田中家ついで古市の森田家などを訪れました。当時平野師範におられた故津田秀夫先生(のち東京教育大学・関西大学教授)の先導もあったのですが、いま思うと、学生の若者を快く迎えて頂いたものと感謝しています。

 これらの家は、近代では地主として自作経営はおこなっておられませんが、近世では自作もされており、十七・八世紀の経営を分析すると、年季奉公人を使い、干鰯・油粕などの大量の金肥を投入して、米穀や木綿などを栽培されていました。またこの年季奉公人は一年季の者が多く、譜代のように人身的従属関係はなく、契約による雇用関係と考えました。それらの内容から、私はこの地域では元禄期以降に初期ブルジョア経営が成立している、つまり十七世紀後半以降には近代化が始まっているとしたのです。この考えは、当時の学界では異端の説であり、随分反発をうけましたが、誤りではなかったと思っています。近年はようやく認める方も増えましたし、海外の日本研究では受け入れてもらっています。また、最近の研究では、大坂南郊の村で、商品作物を主に栽培して、年貢とする米を作っていないため、堂島米市場で米を買ってきて領主に納めた事例が報告されていますが、これなどは他地域では全く見られないことでしょう。

 このような豊かな土壌から、村内では新興層が台頭し、村政をめぐって庄屋と対立する村方騒動が起こりましたが、それとともに庄屋を先頭に、木綿・菜種などの売り先となる大坂問屋の独占行為に反対して、摂津・河内・和泉三か国千か村以上の村々が大坂町奉行所へ訴訟する、いわゆる「国訴」がおこなわれました。

 私は、このような村々の動きを明らかにした論文を書き、大坂近郊の発展と意識の高さを紹介したのでした。

都市の発展

 この農村の発展のうえに都市が繁栄しました。近世初期では、兵農分離・商農分離の政策により、江戸・京・大坂の三都や城下町などの都市が発達しましたが、農村部には商人はいないのが建前でした。しかし大坂地域では全国経済の核となる大坂・堺の幕府直轄都市や岸和田・高槻の城下町とともに、在郷町が多数存在しました。在郷町は、建前上は村とされていて、農家も含まれていますが、農村内部の町場でした。

 また、このなかで特色は、大坂に大坂本願寺(石山本願寺というのは俗称です)があったため、その勢力を背景に、八尾・久宝寺・富田林・今井・貝塚など、一向宗(浄土真宗)寺院の境内としてできた寺内町があり、戦国時代にもかかわらず、豊かで平和な生活を享受しましたが、それらの町は、近世にも在郷町として存続しました。私はこれらの町々を訪ねましたが、富田林には当初在郷町の調査のつもりで入り、それが寺内町であったことを知って、興味をもちました。

 富田林は、戦国期の永禄年間に近隣四か村から出た八人衆が、地域支配者である三好長慶に百貫文を支払い開発の許可を得て建設した町で、一向宗興正寺を戴いて領主とした寺内町でした。興正寺は今も京都西本願寺の隣に伽監がありますが、一向宗の有力寺院で、大きな勢力をもっていましたから、その傘下に入ったのでした。ここは石川谷の中心都市で、水陸の道が通り、大坂・堺そして大和へとつながっていました。そしてこの建設八人衆の筆頭で代々富田林の庄屋を勤められ、近世古文書を所蔵されている杉山家を訪ねました。杉山家は、農地解放までは五十町歩以上の土地を持たれた府下有数の地主で、今は重要文化財となっている屋敷には、最後の住人となられた杉山孝さんが、お付きの老女さんとお元気にお住まいでした。早く亡くされた二人の御令息の母校の学生ということもあって可愛がっていただき、快く古文書を見せて下さり、それにより私は「寺内町の構造と展開」といった論文などを書かせていただきました。それは近年になってまとめました「日本近世都市史の研究」(東京大学出版会)の出発点になるものでした。

 そして度々お邪魔をしたのですが、ある時、孝さんは、私が死ぬと、この家も文書もどうなるかわからない、古文書は富田林へ残すのが筋だが、今の町はこのようなことについて関心がない、息子が出た学校でもあるので、京都大学へ寄付したいといわれて、京都大学国史研究室へ頂くことになりました。その直後、主任教授の小葉田淳先生とともにお礼のご挨拶に伺ったのですが、思いもかけず、この間に孝さんは亡くなっておられました。これはご遺言となったものです。老女さんに伺ったところでは、奥座敷でお二人が話しながら仕事をされていたのが、ふとお声が途切れたので見たら事切れておられたということでした。私は人生の無常を感じるとともに、佳人の最期にふさわしいと思いました。

 その後国文学者の松村緑さんの研究により、孝さんは文人長谷川時雨に大正三美人の一人とされたことや、石上露子の筆名ですぐれた歌を残されていることを知りました。また浜寺にお持ちの別荘は、フランスの世界的建築家コルビジュの設計によるものと伺いましたが、改めてこの家の文化水準の高さを感じました。

 その後、ご令息の好彦さんと兄上が友人であったことから、内情もご存じだった山崎豊子さんが、孝さんを主人公とした小説「花紋」を書かれ、新珠三千代さんの主演によるテレビドラマにもなりました。いずれにせよ私には農村から都市研究への転換の契機となったこともあり、忘れがたい思い出になっています。また、孝さんの逝去後、このお屋敷などはどのようになるか心配していましたが、幸い重要文化財に指定され、東京にお住まいの好彦夫人から富田林市に寄付されたため、保存の途が通じ、公開もなされていますので喜んでいます。

むすびに

 南河内の思い出を記しましたが、この地域は原始・古代以来の豊かな歴史をもつ重要な場であり、近世では経済の最先進地として、すぐれた文化も生み出しました。そして旧家ではお屋敷とともに土地の歴史を示す近世古文書なども伝えておられます。それは前近代の民衆生活を一つの地域として明らかにできる、全国でも数少ない地域といってよいでしょう。

 畑田家住宅当主の畑田耕一先生は、学部は違いましたが、大阪大学で親しくさせていただいた友人ですが、ご自宅などの活用・保存に努めておられるのは、この地域の歴史から見ても意味のあることで、その発展を願っています。


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