哲学は「驚き」から始まる。それまで、当たり前であったものが、にわかに問題として浮上してくる体験から始まる。たとえば、自分にいちばん近いと思っていた身体、それどころか自分そのものであると思っていた身体、それについての情報を、実は、よりによって当の自分がもっとも貧弱にしかもっていない(たとえば自分の顔を、背中を、自分だけが知らない)こと、走りながらヴィデオカメラで写した映像はぐらぐら揺れ、見ているだけで酔いそうになるのに、じっさい走っているときに眼で見る光景は少しも揺れず、大地はでんと不動のままである……。哲学の問いは、まさにそこから始まる。この場合なら心身問題、認識論というかたちで。 哲学が取り扱うのは決して特殊な問題ではない。だれもが例外なしに経験している事柄であり、だれもが関心を持たずにおれない問題である。それが、浮世離れした特殊な問題であるかのように受け取られてきたのは、哲学を輸入したわが国で、認識論だとか存在論、形而上学が哲学の本流であると誤って考えられてきたからであり(社会のあり方、ひとの生き方についての思考がむしろ本当は哲学の主流であった)、また、なによりも用語の翻訳に起因することがらである。ちなみに「存在」、「無」、「生成」、「自我」といった「哲学っぽい」術語も、英語ではそれぞれ being, nothing, becoming, I というふうに幼児でも使う言葉である。哲学は、言葉が難しいから難解なのではなく、日常多義的に使っている言葉をあらためて一義的に定義し直し、言葉に含まれた論理(ロゴス)を一つ一つたどっていくことで、だれもが納得できる結論を導き出そうとするその過程があまりに緻密なので難しいだけである。その背景には、言葉を教養と政治と社交の基礎に据えてきた西洋社会の伝統がある。だから、ヨーロッパでは、いまも高等学校のあいだから哲学教育がさかんになされている。 哲学的思考はスリリングである。それは、時代がなにか大きな変化を起こしつつあるのに、「その変化が何か」をうまく掴みきれないときに、キーとなる新しい概念を挿入することですべてが腑に落ちるような、そういう概念の創造(パラダイム変換)を行うからである。第二次世界大戦後の社会では、たとえば、「実存」、「構造」、「パラダイム」、「差異」といった新しい創造的概念が生まれ、それが学問の世界を大きく変えた。哲学のこうした発見的な機能は、いつも、時代にはるかに先がけてうごめきだしている。 市民のだれもが哲学的な思考の作法になじんでいる社会、それが成熟した社会である。 |