豊中ロータリークラブフォーラム(2005.2.26、ホテルアイボリー)報告

「これからの日本の教育」

大阪大学名誉教授、福井工業大学教授 畑田耕一

兵庫県立淡路高等学校教諭      渋谷 亘

元大阪大学技術専門員       矢野富美子

T.はじめに

 今の子供たちの学力は、国際的に見て成績は上位であるものの、判断力や表現力が十分身についていないといわれている。学習の習慣が身についておらず、自然体験・生活体験等が少なく、人やものと関わる力の低い子供が多い。今話題の「総合的な学習」は問題の発見とその解決を通して子供たちに学ぶことの楽しさ・喜びを実感させ、学ぶ意欲を持たせて真の学力の向上をはかろうとして始められたものである。また、「ゆとり教育」の主たる目標は、単なる知識の詰め込みではなく、知識の背景にある根本原理を、落ち着いて時間をかけて考えさせることである。

この新しい試みが、「総合的な学習に通常の授業の時間をとられて学力が落ちた」、「ゆとり=学校が休み」というような世の中の反応に押されて、消えかかっている。これは、その哲学・根本原理が教師や親によく理解されないままで試みが実行に移されたことが主な原因である。物事の本質・根本原理を考えることがこれからの世界に生きるのに最も重要であるにもかかわらず、日本国民はこれを考える習慣を持たない。

子供の成長には学校の教育力と家庭・地域の教育力の両者が必要である。この教育の原点を理解もせずに、子供の教育を学校や社会に任せきりにし、「学力とは何か」を十分に考えずに「学力低下、学力低下」と騒ぐのはもう止めにして、これからの日本の教育をどのような哲学・根本原理で進めるのかを真剣に考えることにしたい。本稿は、国際ロータリー第2660地区・豊中ロータリークラブ開催のフォーラム「これからの日本の教育」(2005.2.26 於 ホテルアイボリー)での議論の内容をもとに、教育における哲学・根本原理の問題をどのようにして解決するかを具体的な方策を含めて議論したものである。フォーラムを終えて、この解決は決して不可能なことではなく、弛まざる努力を地道に続けることにより達成できるという実感を持つことができた。

U.教育の根本原理を考える

U−1.戦前の教育と教育の現状

古くから日本国民は実利主義・現実主義に立って生活し、役に立つかどうかを優先し、それをあらゆることの判断基準としてきた。明治初期に西洋文化を受け入れたときも、学問の実利的な部分のみを取り入れて学び、その本質的、哲学的な部分は重要視しないきらいがあった。この国民性は、一方で自国文化を大切にし、有史以来一度も他国の属国とならずに独立を守り続けることを可能にしたが、他方で国民が物事の本質を考える力、すなわち哲学を持たないという側面を作り出した。その結果、かつて日本に「名こそ惜しけれ」の精神があったとはとても思えないような現在の世情を招来したといえよう。

教育の成果は国家の形となって現れ、国家の状態は教育方針を決める最大の要素となる。国家と教育は車の両輪のようなものである。江戸時代に蘭学がもてはやされたときも、生命現象や自然現象の本質的理解としての蘭学はあまり国民に理解されず、実学としての蘭学が普及していったように思われる。儒教も「幕藩体制の維持」という実利面から江戸幕府に採用されていたし、戦前から戦後にかけても「軍国主義のために」、「戦後復興の役に立つ」、「経済成長の役に立つ」といった視点から教育制度が整えられていった。戦後は「追いつけ・追い越せ」の単純明快な哲学のもとで、知識偏重詰め込み方式を主とする集団駆け足教育が行われた。このように、かつてはそれぞれの時代の国のかたちに応じて、単純明快で全国民共通の哲学のもとでの教育が行われてきた。

しかし、現在は社会の複雑化に伴って国民の価値観も多様化し、かつてのような単純明快で全国民共通の哲学あるいは目標を定めることが困難になっている。これにドッグイヤーといわれる社会の変化の早さが追い討ちをかけている。現在のわが国では、何を目標として教育を行えばよいのかがよく分からず、混沌とした状態である。この大人の迷いが子供たちに伝播し、子供たちも迷走していることが、教育問題を含む現在の青少年が抱えるさまざまな問題の背景になっているのではなかろうか。

U−2.教育の根本原理とは

 教育の根本原理は、知識を教えそれを応用させるだけでなく、その背景にある物事の本質を考えさせることである。たとえば、中学生に密度のことを教えるのに、定義とその応用にとどまらず、密度という数値が何故必要なのか?密度の大小は何故起こるのか?などを分子・原子の概念などの関連する知識をもとに生徒に考えさせることである。

実利主義的な教育では議論や本質的理解ではなく、「諳んじること」が重要視される。教師の誘導に従って生徒が考えるという訓練はされても、自分で考えさせるということはあまりなされない。これまでにわが国で行われてきた実利主義的な知識詰め込み型の教育では、本質をじっくり考えることよりも、知識を獲得したり、問題解決方法を習得したりすることに重点が置かれてきた。その結果、自ら問題点を発見したり、自分の意見や考えを明確に持ち、それを表現したりする力を十分に育成することができたとはいいがたい。日本人が海外に住んだときに、この日本の教育の問題点に気付かされることが多い。

他国からの留学生たちからみると、日本の学生は、自分の考えが希薄で表現能力が低く、論理の矛盾を指摘することが下手だという。その結果、自己主張ができず、議論に参加できない。アメリカに短期留学した日本の高校生が、アメリカの教師に質問されて、“I have no idea.”を連発し、教師を怒らせたりアメリカの級友から軽んじられたりしたという引率者の話は、この留学生の指摘を裏付ける。

V.根本原理の教育を行うには

V−1.本質理解のために

哲学・根本原理の教育を達成するためには、授業や学校生活の中で物事の本質を考える習慣をつける必要がある。そのためには、まず、少人数単位で特定の問題を考えさせ、各人の意見を発表させ、討論させることが望ましい。また、従来の反復練習に重点を置いた宿題だけでなく、じっくりと考えるようなタイプの宿題も限られた授業時間の補足につながる。読書も本質理解の教育には欠かせない。実際、例えば豊中市では、市内のすべての小・中学校に一人の司書教諭を配置し、よい本をしっかり読ませるための取り組みがされている。兵庫県でも同様に学校における読書活動が県の教育重点課題に挙げられている。これらの教育活動が子供の批判・分析能力の涵養につながることは間違いない。

日本の教育現場では小学校から、教師がすべてをお膳立てしてしまうため、生徒が問題点を見つける必要がなく、分析的思考能力・批判的思考能力が育たない。流暢に流れる授業は、考えたり自分の意見を言ったりする余地のないテレビ番組と同じで、考える力を損なうことがある。また、学校で知識の背景や成立過程をいくら重要視して授業をしても、塾で問題の解き方と答えだけを機械的に身につけてしまっている生徒には、学校の授業は退屈でわかりきったものと映る。大学進学予定者の多くが塾通いをするわが国では、本質理解の教育に、塾の存在が無視できない影響を及ぼしていることを忘れてはならない。学校の授業と塾の授業の本質的な違いをよく理解して子供に教えるのは、保護者の務めである。

V−2.子供たちの現状

 今の子供たちには判断力や表現力が十分身についていない、学習の習慣が身についておらず基礎的な学力が定着していない、遊びは屋内がほとんどで原体験が少ない、人や物と関わる力(広い意味の道徳)が低下している、などとよくいわれる。また、目的・目標の定かでない社会の中で甘やかされて育った結果、叱られることに慣れておらず、目的意識に目覚める機会を持つことが少ないとの指摘もある。

国際的な生活アンケートを見ると、日本の子供たちは、学業成績は上位であるにもかかわらず、「自信があるか」という問いに「ある」と答えた者の割合は最下位であった。テレビを見る時間は各国中で最も長く、コンピューター操作や体を動かす時間は平均を下回るという実態であった。就寝時間が夜10時以降の小学生も多く、朝食を食べない子供や、外食・孤食・調理済み食品が中心の子供も増えてきている。このような子供たちに、自分で考え、自分で判断できる力を育てるには、あまりにも条件が悪すぎる。

V−3.学習意欲の重要性

子供たちに学校でどう学ばせるかは教師にとって重要な課題である。一人ひとりが自己実現し、自分の花を咲かせることができる教育環境が、哲学をしっかりと持ち、自分の考えを主張できる子供の育成につながる。子供を試験の点数だけで判断せず、「何ができるか?」を見つけて伸ばすことが大事である。勿論、これまでに行ってきたような学業成績に順位をつけて競争させるのも教育方法のひとつではあるが、低学年で競争させると目標が一位になることのみになって、一部の子供に無用の挫折感や無力感を味わわせるだけに終わるという意見もある。アメリカでも小学校と中学校では成績の順位はつけないということである。難しすぎる授業や無用の競争が、学習意欲を喪失した子供たちを多く作り出してきた原因のひとつであることは間違いない。先の国際アンケートの結果にも見られるように、試験の成績がすべてで、自信がなく、自分の考えを持たない子供を育ててはならない。

子供の好奇心や「なぜ?」と思う心は、考えることと学習意欲の原点である。学校や家庭で教師や保護者が子供の「なぜ?」に的確にこたえられないと、子供の好奇心は薄れ、学習意欲は萎えていく。ところが、小学校では一人の教諭がほとんど全ての科目を教えるため、自分の専門外の科目ではその分野の根本原理を児童に伝え難く、「なぜ?」にもこたえられない場合がある。小学校1年から専門教師制を採用しているというマレーシアの子供が日本に来て1年ぐらいで、「なぜ?」を発する回数が減ったという話は、この問題の深刻さを伺わせる。特に、小学校の児童の質問には自然科学に関するものが多いのに、わが国では理系の小学校教諭が非常に少ないという事態は早急に是正する必要がある。

授業中の「先生違うよ!」という子供の気付きも重要である。この、「先生違うよ!」が子供の問題発見の原点であり、これを教師は大切にしなければならない。子供の「なぜ?」は学校だけでなく家庭でも発せられる。親、特に母親と子供との対話を通して子供の「なぜ?」にこたえ、好奇心を持続させることは、非常に重要である。子供の「なぜ?」は時には非常に難しく、教師にさえ答えられないことがある。子供と一緒になって調べようという姿勢も大切である。教師、保護者や地域社会の人々のたゆまざる生涯学習による家庭・地域の教育力・文化力の向上が、次の世代を担う国民の教育に不可欠であることを国民はもっと切実な問題として認識してほしいと思う。また、昨今のような国家による教育哲学の朝令暮改は、日本の教育にとって大きなマイナスである。

V−4.ゆとり教育と総合的な学習の時間

冒頭でも触れたように、ゆとり教育と総合的な学習は、国民の物事の本質を考える力を育てようとして始められた。この試みに対してさまざまな批判があるのは、その哲学が国民にも現場の教師にもよく理解されていないのが一因と考えられる。

総合的な学習の授業を通して、生徒の周辺から問題を発見させ、知識の広さと深さ・習熟度に応じて問題を考え、解決し、結果を表現させるという教育を始めないと、いつまで経っても国民の物事の本質を考える力は養成されない。勿論、総合的な学習には通常の授業による知識の習熟が必須である。総合的な学習を通して考える習慣を身につけた生徒は知らず知らずの間に通常の教科の授業での習熟度を上げていく。総合的な学習と教科教育との融合は、これからの教育の推進に大きく貢献するものと考えられる。現場の教師はこのことをよく理解して生徒の教育に当たってほしいと思う。せっかく始まった総合的な学習である、もっと建設的に物事を考えようではないか。

W.家庭の教育力と地域のかかわり

教育の原点は家庭にある。学校で学んだことが家庭でいかに臨機応変にいかされ、子供にいかに考えさせ、行動を起こさせるかは家庭の教育力にかかっている。

安定した心と考える力の原動力は、安定した頭脳の力・豊かな心であり、それは規則正しい生活に始まる。24時間のリズムを乱さないためにも、家庭での「早寝・早起き・朝ごはん」の習慣は守ってほしい。家族全員で食卓を囲んでの会話は、考える力を養い家庭の文化力を高める。新聞、ラジオ、読書など何でも話題にできるし、ただ見るだけではかえって考える力を損なうというテレビ番組も、食卓の話題としては役に立つ。また、美しい自然やその神秘に触れ、感動することも考える力の原点となる。親子で通りを歩いているときに、道端に咲く花を見つけて「きれいだね」と立ち止まれる親の意識と心の余裕が子供の中で哲学を育み、善悪の判断、思いやり・やさしさといった生活するうえでの基本的で最も重要な事柄を身につけさせる。親子が接点をしっかり持ち、豊富な話題でコミュニケーションを取れなければ子供の頭脳は成長しない。仕事や忙しさに逃げ込まず、子供と本音で関わる家庭つくりが大切である。共働き・核家族が増える中、このことは特に意識して努力しなければならない。母親・父親の温かい言葉が豊かで安定した子供の心を育てる。

子供は親の姿を見て育つ。親が社会の人々や自然環境に対して人間のとるべき態度、すなわち広い意味の道徳について独自の確固たる哲学・判断基準を持ち、それを子供に示し、考えさせることが、子供が社会に生きる原点を作ることになる。ここでは、「家族の親睦」と「人の道」が重要なキーワードである。

このように両親が子供に及ぼす教育上の影響は大きい。国民全員が生涯学習を心がけ、家庭の文化的環境を良くし、教育力を高めることがひいては地域の文化・教育力を高め、子供に生きる力を養わせる。成績や習熟度などにこだわり、他との比較ばかりしていては子供に無用の挫折感や喪失感を植えつけてしまう。子供とのかかわりの中で親がわが子の良いところを見つけ、認め、伸ばしていくことが大切である。そのためには、親も子供と一緒に自然の美や神秘に対して心の琴線をふるわせるだけの余裕を常に持っていたいものである。「ゆとりの教育」は子供だけではなく、親や教師にもゆとりある哲学の心を養う時間を持つことを求めているといえる。

ゆとり教育の導入によって子供が家にいる時間が増えたわけであるが、受け皿となる家庭は一体何をしてきただろうか。豊かな心を育てるという教育・学習の基礎を作ろうとして始められたゆとりの教育がいま見直されようとしている。これについては、学校だけでなく、学校教育の受け皿となる社会や家庭にも問題があったように思われる。現在の日本では、子供の教育を学校に任せきりにしているきらいがある。心のゆとり教育や総合的な学習の場は本来家庭にあるべきものである。家庭の文化・教育力は学校での総合的な学習に寄与し、また、総合的な学習を子供と親が共にやれば家庭の文化・教育力が向上する。家庭の教育力なしには学校教育は成り立たない。

X.教師、学校、国の教育力

 教師の存在はその生徒の一生に関わる。一人ひとりが高い専門性と倫理観を持ち、尊敬される質の高い教師でなければならない。現在の教師には自分の専門分野はもちろん、他の出来るだけ広い分野に通じ、それと授業とを関連付けられる能力が求められている。分野を問わない子供の「なぜ?」に対し、的確にこたえ、あるいは考えるきっかけを与え、好奇心を持続させる姿勢は教師の基本である。塾の授業のように、入試突破を目指して流暢に流れる授業では、考える力をつけることは難しい。学校と塾の役割分担を踏まえた授業を教師は心がけなければならない。

教師はまた、常に生涯教育を心がけ、リフレッシュ教育の機会を探らなければならない。教師が成長し続けないと子供は成長しない。子供の成長に教師が負けていてはならない。しかし、財政上の問題や社会のあり方の変化に伴い、教師一人当たりの仕事量は膨大になっている。教師の本業は授業であるが、ともすれば生活指導や学校経営のための仕事がのしかかり、教師が授業に専念できない事態が発生している。校務の傍らに授業をこなしていると言わざるを得ないような状況も生まれつつある。教師が授業と教材研究に専念できる環境づくりこそが急務である。

さらに大事なことを言えば、集団駆け足教育が通用しなくなった今、カリキュラムは現場の教師の手にゆだねられるべきではなかろうか。物事の本質を見極め考える力を学校教育で養成するには、地域性や生徒の実態、能力に応じて柔軟に教育内容を設定できなければ意味がない。試験の成績はよいが発言が少なく自己主張に乏しいクラスと、発言は活発にするが自分のことだけを考えて他はかえりみず、一般化することが苦手なクラスとでは教育の手法はまったく異なるはずである。カリキュラムの適否は現場で実際に生徒と接している教師でないと判断できない。教育課程のきめ細かな設定は現場の教師が行うのが一番効果的である。

 哲学・根本原理の教育を達成するためには、教師が生徒一人ひとりをきめ細かく指導しなければならない。物事の本質を考えさせる教育活動は集団で一斉にできるものではない。少人数のクラスで一人ひとりが十分に自分の考えを熟成できる環境を整えることも必要である。現在の1クラス40人の規模ではこのような教育活動を十分に行うことは不可能に近い。少人数クラスで、複数の教員がそれぞれの哲学を持って教育に当たることが、豊かな心で本質を考えることの出来る生徒の育成に寄与するものと考えられる。

Y.おわりに

最近PTAの役員のなり手がなくて困るという声をよく聞く。このことに象徴されるように、家庭・学校・地域が子供の教育に対し、「一緒になってよくしていこう」という姿勢が薄れてしまっている。せっかくのPTAが本来の機能を失ってしまっているというのは極めて残念なことである。教師以外で教育に関心のある人が少なく、仮に関心を持っていても、教育について語り合う場が非常に少ないことも問題である。このフォーラムに出席した留学生の一人の「こんなに自由に教育のことを語り合えたのは日本に来て初めてだ」という言葉がそれを示している。その意味で、豊中ロータリークラブの毎年の教育フォーラムは非常に意義深く、教育問題を考える貴重な機会を提供しているといえる。今回のフォーラムでも、上記のとおり、日本の教育の問題解決にとって貴重な提案がなされた。その一つ一つはそんなに実行の難しいことではない。何とかしてこれらの提案が実現するよう努力したいと思う。

なお、教育を論ずるときに、問題の拠ってくるところを現在の教育のみに求めることが多いが、これは大きな間違いである。現在の日本の社会に現れているさまざまな事象は、ずいぶん以前の教育の成果であることが多い。今の子供を作り、育ててきたのは20~30年前に学校教育を受けた親である。親の受けた教育の影響が子供に伝わらないということはありえない。今の教育だけを見て安直に教育改革を進めるべきではないし、国は安易に教育方針をたびたび転換すべきではない。このような観点から教育の問題をもう一度見直してみるのも大事なことではなかろうか。

 本稿は、国際ロータリー第2660地区・豊中ロータリークラブ開催のフォーラム「これからの日本の教育」(2005.2.26 於 ホテルアイボリー)での議論の内容をもとに、出席者の渋谷亘(兵庫県立淡路高等学校教諭)、豊中ロータリー畑田耕一会員(大阪大学名誉教授、福井工業大学教授)、元大阪大学基礎工学部技術専門員矢野富美子がまとめたものである。豊中ロータリークラブのホームページhttp://www.sun-inet.or.jp/~jtrc2660/SEISYO05.htmに掲載されたものを、許可を得て一部改稿のうえ、ここに転載させていただく。

 当日の参加者は、上記3名のほか、豊中市教育委員会教育指導課長船曳裕幸、豊中市立第四中学校校長坂口義裕氏、豊中市立豊島小学校校長戸神繁信氏、豊中市立東丘小学校校長坂上健二氏、フランス国立科学研究センター名誉教授関口U氏、(株)カネカ研究所員多和田誠氏、2003-2004年度ロータリー財団国際親善奨学生西山幹枝氏、2000-2001年度米山奨学生金明a氏(大韓民国)、2004-2005年度米山奨学生李哲雨氏(中華人民共和国)、大阪府立大学博士課程桑原佐知氏、大阪大学留学生国際公共政策研究科マルクス サッセ氏(ブラジル)、大阪大学留学生国際公共政策研究科研究生スブラマニアム モガナ氏(マレーシア)、大阪大学大学院国際公共政策研究科ジョン リベイロ氏(アメリカ)と豊中ロータリークラブ会員馬場一雄、福盛康友、門宏明、加登敏夫、米田真、松尾宗好、村司辰朗、中西純造、西山敏之、大塚頴三、澤木政光、田中守、内本晴夫、矢口正登、山西洋一、矢野昭の各氏であったことを記して謝意を表する。

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