「あたりまえのこと」と「あたりまえでないこと」―論理的に考える教育の必要性(2006.12.31)

フランス国立科学研究センター名誉教授  関口 U

1.はじめに

もう数ヶ月も前のことになるが、畑田先生のお世話で大阪北郊にある小学校2校で出前授業をさせていただく機会があった。両校とも5年生の3クラス合同で約100名の生徒が対象、給食のあと教室の掃除をすませた午後の時間をいただいて、ゆっくりと話すことができた。

授業の題目は「あたりまえのこと、あたりまえでないこと」である。どんなことが「あたりまえ」で、何が「あたりまえ」でないか、「あたりまえ」の実例をたずねると、生徒たちは活発に答えてくれた。

@1に2をたすと3になるのはあたりまえ。

Aあついものにさわったら、やけどをするのはあたりまえ。

Bお金を大切にするのはあたりまえ。

C私にとっては、言ったことを守るのがあたりまえ。

D日本は、忘れ物は無くなるのがあたりまえの国。

Eあたりまえの服を着た女の子。

F誰某が叩いた(ぶった)ので、叩き(ぶち)返してやったのはあたりまえ。

Gあれほどたくさんもっているのだから、少しくらいぼくにくれてあたりまえ。

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2.「あたりまえ」の語源と意味

 つぎに、「あたりまえ」の語源について説明した。「あたりまえ」と同義の漢語「当然」(正字は「當然」)はすでに2000年前に中国の文献にも多数見られ、日本にも古く漢文輸入の際に入ってきたらしい。江戸時代後半になって庶民の学問熱が高まって識字人口が増えると、誤字・当て字が横行するようになり、「当然」が「当前」とも書かれるようになったことから、それを訓読みした「あたりまえ」が通俗化したものと見られる(日本国語大辞典、大言海、広辞苑による。日本国語大辞典は他の一説も併記している)。

 また、語意についてはどの辞書もほぼ同じ説明をつけている。「あたりまえ」について広辞苑は1.そうあるべきこと、当然 2.ごく普通であること、なみ 日本国語大辞典は形容動詞として1.道理から考えてそうあるべきこと、当然 2.ごく普通のこと、ありふれていること 大言海は1.理の当る処、当然 2.転じて、つねなること、なみ、通例、尋常、すなわち、どの辞書をとっても1.は理論的・論理的、ときには倫理的またはものの道理のうえからみて期待されるべき當然、2.は経験・慣習などの見地からみて平凡、日常的、常識的、際立っていないこと、特異でないこと、ということになる。前者は理性の判断にもとづくが、後者は安易な世間順応型の消極的な感覚にすぎない。なお、「あたりまえ」の原語「當然」には本来2.の語意は存在しない。

 ところが、実生活の上で「あたりまえ」ということばが使われる場合には、往々にしてこの二つの意味が混同されている、――というよりは、いろいろな「あたりまえ」が、あるいは二つの意味の中間的色彩を持って、また、あるいは二つの意味を表裏両面にもって濫用されている。時には、意図的に混同させるように使用されることもある。たとえば、根據の薄弱なものを強引に正当化しようとする場合などである。こうして、「あたりまえ」という言葉が本来の論理性を失って、論理的思考を阻害する魔法の言葉になっている。

 そこで、生徒たちのあげた「あたりまえ」の各実例がどの程度本当にあたりまえであるかを検討するために、論理性・正当性・確実度の高いものから低い方にと順に大雜把に分類してみた。これは今のところ全く不完全な一試案であるが、あとの議論を進めるためにはこれで用が足りると思う。

(1)論理・理性などによって明白とみられるもの、あるいは説明がつくもの、予期されるもの(例@、A)

(2)倫理・道徳的にみて要求されるもの、一般的または特定の観念から正当とみなされるもの(例B、C)

(3)日常的・経験的に見なれているからという「あたりまえ」(例D、E、F)

(4)利害得失などの発想から上記3項目のどれかに似せてつくった正当化の「あたりまえ」(例F、G)

 おそらく生徒たちにとってはこのような分析・整理・分類は初めての経験だったろう。そこでこの部分は講師先導のかたちで話をすすめた。生徒たちはこれによってこのような操作のあることを知ったことと思う。

 そのあと、生徒たちが先に提出した「あたりまえ」のいろいろな実例について、一つづつそれが上記4項目のどれにあたるかを生徒たちと共に検討した。中には、使用時の状況によって2項目(たとえば例F)、あるいは3項目にわたるものもあり、問題の複雑さをうかがわせた。

 最後に注意事項として、これからは何かを「あたりまえ」と思ったとき、また誰かが「あたりまえ」と言ったとき、その都度、それが本当に「あたりまえ」であるかどうかを考えてみることをすすめた。これまで子供たちにとって「あたりまえ」は免罪符であり、思考停止の厚い壁だった。歪曲を固定化する終止符だった。「あたりまえ」が本当にあたりまえかどうかを考えることはこの厚い壁を破ることだ。この壁を破ることによって本当の思考がはじまる。

 実をいうと、木の枝からリンゴが落ちる「あたりまえ」もニュートン以前は単なる経験的知識だった。重い大きな石も軽い小さな石も同じ速さで落下することは、ガリレオ以前は「あたりまえ」ですらなく、「重い方が速く落ちる」の方が「あたりまえ」だった(因みに、両校とも5指にあまる生徒がニュートン、ガリレオの名を知っていた)。「あたりまえ」を疑うこと、これが本当に考えることの第一歩だというのが、この出前授業の主旨であった。

3.「考える教育」を考える

 「あたりまえ」についての話はこれで終わるが、実はこの出前授業では言わなかった別の問題が一つあった。それは「考える教育」の問題だ。教育の中で「考える」ことを教えるということの重要さについては何人も異論はない。しかし、何を考えることを想定して「考える教育」を論じているのかというと、それは千差万別、人まちまちで、そのために議論がかみあわず、ふかまらない。

 「考える」というのは生物学的、詳しくは大脳生理学的機能であって、われわれヒトは生まれてから死ぬまで考え続けているわけだ。したがって、「考える教育」というのは存在せず、「考える教育」ということば自体に意味がない。そこで、「考える」とは何か、現実の教育の中での「考える」を段階的に分けてみた。

(A)習得・反復・理解・習熟の段階:幼児が言語を覚えるのも、歩きだすのも、考えることなしにはできない。一般に「ものまね」をするにも大いに考えねばならない。程度の高低に関係なく、習得・習熟、特に理解には考えることが不可欠である。

(B)応用の段階:習得・習熟した能力や知識を応用して、習熟過程よりも広い範囲の具体的な問題に活用することを教える。ここで、応用には習得や習熟よりも高度の思考が要求される。

(C)自発の段階:身についた能力や知識を自分の知らなかった新しい問題に適用して発展させる。興味・関心・意欲・努力が必要で、指導者はこれを間接的に支援できる。

(D)開拓の段階:徐々に自立して専門化する。創作や研究などがこれにあたる。この段階では第三者は助言によって協力することができる。

上記の番号は各段階のはじまる経時順位であって、年齢には関係しない。高度の知識の習得は高学年や上級学校ではじまり、所用日数が圧縮されるだけで、同じ経過をたどる。

この4段階の叙述は全く概念的で、実際面での国語と算数と理科などのあいだの相違を無視したものだが、基本的な共通点にまとめたものと見ていただきたい。

 そして、「考える教育」を主張する意見の大部分は、どの段階で、どんな方法で、どこまで学習者の自発的な思考を引き出すかという議論に終わっている。

4.これまでの日本の教育とこれからの日本の教育

誰がいつ言いだしたのか日本には「知育・徳育・体育」というスローガンがある。これは「教育すなわち訓練」という発想から出た古い教育理念だと思うが、この発想の批判は別の機会に譲るとして、そのうちの知育について考えよう。

 日本人は昔から教育に熱心な国民として知られている。国民は実務に長じていて、国家や社会の要請に現実的に対処する能力にすぐれており、日本の教育はその目的によく合致している。すなわち、日本の学校教育は上述した4段階の図式を意識的に組織化した、実用を主眼とした現実主義的な「養成教育」であって、知識や技能の習得という実際面の効果の限りにおいては充分に成功しているといえよう。 日本が経済大国になったのも、技術立国を果たしたのも、これすべて教育の成果である。もちろん、現在の教育の中に欠点・難点や不満がないわけではないが、大綱においてこれまでの日本の現実主義的教育は、少なくとも実際面においては、成功であったことは認めねばならない。

 それではもろ手を挙げて賛美すべきか。 否である。 日本の教育は残り半分を忘れている。 そしてこの大きな欠落が日本人の民族的欠陥を作っている。 また逆に、現在の日本人の欠陥がこの欠落を許している。その欠陥とは、現実主義・実利主義という砂漠の中で干上がりかかった思考力・論理性の弱さである。 現在の日本の教育には実用編・応用編があるだけで、基礎編がない。 あっても微々たるものにすぎない。実利主義の大きな流れはあるが、それを裏打ちすべき思考力・論理性・判断力の固めがない。 第3節に述べた4段階の学習過程に倣うなら、

(a)習得・反復・理解・習熟の段階(学習時の)のあとに

(b)概念の整理・分類・分析・比較の段階(「あたりまえ」の種類参照)

(c)検討・判断・評価・批判の段階(本当に「あたりまえ」かの項参照)

(d)概念の再利用・再構築、説得力のある議論への応用の段階(他の概念も合

わせて自己の思考内容を整理・表現)

という後続3過程が必要ということになろうか。これが先に言った”残り半分”、すなわち概念の整理、論理性の育成、思考力の錬磨につながる本当の「考える教育」である。

 それでは、現在までの日本の教育が何故これを軽視ないし無視してきたのだろうか。その理由は3つ考えられると思う。その一は、あまりにも実利・実用に重点をおいた結果、原則・基礎に手が回らなかったこと、そのニは、日本人自身があまりにも実務的現実主義者でその問題に気づかなかったこと、そしてその三は、国民が判断力批判力を持つと実利・実用主義社会の根底を揺さぶる分子が増えてくるという危惧である。

 筆者は実利・実用主義、現実主義の教育を否定するものではない。これは後発の社会が一日でも早く先進国の水準に追いつくために必要なもっとも直接的な手段だ。日本に続く数多くの新興国が同じ方法を採用している。しかも、これに成功するにはその社会の歴史的・文化的背景が整っていなければならず、新興国(日本も明治以来その一つだった)の中にも進歩のはやい遅いがある。しかし、いつまでも実利・実用主義の妄想にとらわれていてはならない。アジア・南アメリカなどの新興勢力と呼ばれる中進諸国もやがては日本と同じ方法で同じ水準まで追いついてくるに違いない。今のまま続けて日本が永遠にこれら諸国を引き離して進歩することは考えられない。

 それではどうすればよいか。端的な例として、世界の経済面・技術面での軋轢の中で、今日本は何を以って優位にたっているのか、また何によって損をしているのかを見れば分かることだ。日本は現実の世界という所与条件の中で、血と汗を流す精一杯の努力によって(たとえば、大企業の存在感と国民生活の貧困さとのギャップを欧米諸国の場合と比べればよい)何とか世界の列強と肩を並べる日本、ここに日本の実利・現実主義のそれなりの成功面を見ることが出来る。 そしてその反面、現実の所与条件そのものを牛耳る欧米諸国とのあらゆる交渉に敗れ、言いくるめられ、圧しつぶされる日本、自己主張が下手で弱くて、いつも議論や交渉に負けている日本、これが日本の実利一点張りの教育、”残り半分のない”教育の弊害から来ているのは明らかである。実は、これは単なる損得だけの問題ではなくて、もっと大切な日本人の品位や尊厳にかかわる重大事である。

日本人が論理に欠けるというのではない。ことわざにもいう通り、誰でも何事についても三分以上の理をもっている。問題は、それが大河の滔々たる論理ではなくて、往々にして根も幹もないみみずの穴のような、やせこけた、長さ3分の論理であるということだ。この現状を改善しなければならない!日常から物事を考えて、その考えを分析し、整理し、分類する。物事を論理的に追求し、判断し、根據をもって批判する。物事を主張し、論理的に議論を構築し、議論をたたかわせて説得する。これからは、こうした能力を内に秘めて、必要なときにそれを行使できるような日本人が数多く出なければならない。そして、そのためには小学生のときから分析的・論理的に考える教育をおこなう必要がある。

現在、世界は大きな変革の真只中にある。市場原理の導入(というよりは普遍化)や、いわゆるグロバリゼーションは、もともとアメリカが自国利益の保全・拡張を目的として強行する世界政策であるが、これが現実問題となっている以上、アメリカ自身を含むいわゆる欧米諸国にも社会のいろいろな見直しをせまっている。これまで欧米諸国はその伝統的な論理・原則で固めた重厚な物質文明の社会を築き、つねに現実主義・実利主義を侮蔑・軽視してきたが、今や実利主義的発想なしには新興諸国に対する優位を維持できなくなった。ただ、本来の原理・原則主義には指一本ふれていない。今後は実利主義を加味して両刀を使い分ける二元的発想の社会になるであろう。

われわれも現時点での社会の発想にとらわれて目前の何を強化するかということでなしに、社会の発想自体を見直さねばならない段階にさしかかっている。今こそ日本は、従来育てあげ、磨きあげてきた実利主義的社会に、これまで疎外してきた論理的発想を強化して、欧米とはちがった発想による複合的社会をつくらねばならない。

「あたりまえのこと」と「あたりまえでないこと」の出前授業は、こうした考えのもとに論理的に考える教育にむかって筆者が投じた一石である。


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