寺子屋で聴く「哲学」の話(2007.1.28)
八尾ニューモラル生涯学習クラブ  池上和彦

120年の文化と歴史を今に伝える登録有形文化財の畑田家で鷲田清一先生の「哲学」の話をお聴きした。まるで江戸時代の寺子屋で師の教えを受けているような錯覚に陥る。先ず「臨床哲学」なる言葉に非常な新鮮さを覚えた。身近な事柄を例にあげ、易しい言葉で話される内容がとても楽しく、暫し哲学の話であることを忘れるほどであった。
 還暦を過ぎる年月を重ねたが、ある事案について、Aさんの意見に「その通りだ」と思っていたが、後にBさんの話を聞いたら「こちらの方が正しそうだ」と変わる。ところがCさんの結論にも頷けることが間々ある。果たしてこんな意思の弱い自分で良いのだろうかと迷い悩むことばかりであったが、今日のお話からそれでも良いのだと悟り大いに安心した。
 哲学でよく使われる言葉、「存在」、「無」、「生成」、「自我」について、西洋の言葉を苦心惨憺の末、その訳語を先人が考えだした様子や、それでもニュアンスの違いは如何ともいたしがたいこと等を知り、矢張り言葉は難しいものだと思った。
 哲学では、必ずしも一つの結論が出るとは限らない。物事は突き詰めても分からないことが一杯あるともお聞きした。帰宅して読んだ本の中に以前に聴いた覚えのある落語の話が載っていた。その内容は

与太郎「御隠居におたずねしますがね、ここから西の方へどんどん行ったらどこへ行きますかね」
御隠居「そりゃお前、海のはてへ行くんだよ」
与太郎「その海のはてをどんどん西へいくとどうなりますか」
御隠居「そこはもう、もやもやとしていてよくわからん」
与太郎「そのよくわからんところをどんどん西へ行ったらどうなります」
こうして御隠居さんは問い詰められて、とうとう喘息が出てしまいます。御隠居は、ゼ−ゼ-しながら「これ与太郎、小遣いをやるからもう勘弁してくれ」

お昼のお話を思い出して思わず含み笑いをしてしまったのでした。

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