文化伝承の教室としての伝統的日本住宅―「住育」の大切さ―(2006.1.29公開、2.21改訂) 大阪大学名誉教授 畑田耕一 大阪府教育委員会文化財保護課主査 林義久 最近の日本の住宅は、夏は冷房、冬は暖房がよくきいて、随分快適になった。しかし、その代償として日常生活でのエネルギー消費は多くなったし、冷暖房の効率を上げるために家の中の「無駄」な空間が無くなって、機能的ではあるがゆとりの無い家が多くなったような気がする。 長く放送されていて好評と思われるテレビ番組に、施主の要望を取り入れて建築家が設計した便利・快適な住宅を紹介するものがある。しかし、ここで追求されているのは内部空間の快適性であって、外部空間(外観)のデザインについては、コストやプライバシー、或いは防犯を意識してか、凹凸の少ない箱のようなデザインが目立ち、町並みとか地域に対する配慮に欠けるものが多い。これらの住宅はシエルターのように外部に閉ざし、自分たちの空間の快適性を求めて、地域・近隣とは隔絶して個人的満足度をのみ高めたもののように思われる。 日本の住宅が豊かな自然とともに、外部空間と開放的に一体化してきた伝統文化は失われつつあり、極めて個人的、閉塞的になってきたようである。自然に立ち向かいこれを制御するためにエネルギーを使うというような「勿体無い」ことはせずに、住居においても自然や地域とうまく共生していくという考えが必要である。 古い日本住宅には、先に記したように一見「無駄」とされるような、何に使ったのか、あるいはどういう風に使ったのかが、はっきりしない空間や道具類が沢山ある。「この部屋の囲いのあるあの隅は何に使ったのかな?」とか、「この窓は何故ここにあるのか?」とか、「この道具は何に、どんな風に使ったのか?」など、子供の想像力をかきたてるものが一杯ある。家の中でも隠れん坊ができる空間・環境である。 このような、子供のころの家の中での昔の人間の営みについての体験や想像の時間は、年を経るにつれて人間の創造力、やがては文化の創造につながっていくと思うが如何であろうか。最近、筆者の一人(KH)の羽曳野にある生家の長屋門の下の石畳に畳を敷くと、きっちり6畳の空間になっていることを発見した。ご存知のように、昔の建物は畳のタテ×ヨコの寸法を単位として考えられていたので、6畳ぴったりの寸法になっていたのであろうが、「昔はここを何に使ったのだろうか?」 「何かのときの舞台にしたのだろうか?」など、いろいろと想像の世界が広がる。 子供のころ風邪を引いて寝ていたときに、高くて薄暗い天井の板の木目をじっと眺めていると波の打ち寄せる砂浜、人の顔、犬や猫、魚などの動物の姿、時には恐ろしい鬼の顔など、実にいろいろのものが眼前に浮かんできて退屈しなかったのを覚えている。目を凝らして見ていると二次元の画像が、目の焦点をぼかすと三次元の画像になったりする。テレビの無い時代の子供は幸せだったなと思う。他人には秘密にしておきたいような空想の世界、他人とは共有しようの無い夢想の世界、そこにゆったりと遊ぶことの出来たものは、やがて長じるにつれて、他人と共有可能で、しかも個性豊かな独創の世界、創造の世界に進んでゆけるのではなかろうか。 現代の人がひょっとすると「無駄だ、無くしてしまいたい」と思うかもしれない空間やものが、歴史を担い文化を開く。極論すれば、家の隅や天井の梁の上などに溜まっているホコリもそれぞれの時代を特徴付ける分子の集団である。分子レベルの分析が容易に出来る時代になれば、ホコリもまた貴重な文化遺産である。古い家を大事に生かし続けて生きたいと思う所以である。 冒頭でも述べたとおり、現代の日本の住宅は内部空間的には機能的で便利であって、わけのわからない空間など存在せず、また、経済性やプライバシーを考慮してか、地域・近隣に閉鎖的な住宅でもある。言い方を変えると、ゆとりのない閉ざされた空間である。ゆとりのない閉ざされた空間から、ゆとりあるコミュニティー・豊かな社会を形成することは難しい。また、ゆとりのない社会では、ゆとりのある教育は行い難い。あらゆる面において効率一辺倒で、ゆとりのないあくせくした社会から、新しい優れた文化が生まれ、深まることは難しい。 日本の古い家屋は、これまでの日本の文化の担い手であるだけではなく、新しい文化発信の拠点でもあった。「文化財を保存し、且つ、その活用を図り、もって国民の文化的向上に資するとともに、世界の文化の進歩に貢献すること」という文化財保護法の目的は、このことを見事に言い表している。 少し話は変るが、古い日本住宅の竈(かまど)は、お世辞にも機能的で便利とはいえないが、それでも鍋の大きさに合わせていろいろな大きさの輪が重ねて置けるようになっていて、どんな大きさの鍋も使えるように工夫されている。昔は左官屋さんが竈を築き、その技術の上手、下手で竈の燃焼効率が決まったと聞く。燃料としての薪を大切に考えた事はもちろんであるが、その燃えかすは火消しツボで空気を遮断して消し、「カラ消し」とする。「カラ消し」は、いわば発泡木炭のようなもので、大変火がつき易く、七輪で一寸煮炊きをするときの燃料や、火鉢の炭の火起こしに重宝する。また、この「カラ消し」は使えるものは絶対に捨てない、生かして使うという「勿体無い」の心の現れの一つでもある。 アフリカの植林活動「グリーンベルト運動」でノーベル平和賞他を受賞したケニアの女性環境保護活動家で、ケニア副環境大臣のワンガリ・マータイ博士は、昨年来日した際、欧米にはない「MOTTAINAI」という言葉に感銘を受けて世界に広めることを決意し、環境保護の合言葉として国連でも紹介した。 この「勿体無い」の心は、日本古来の生活を貫く基本的精神のひとつである。上記の「勿体無い」はそのものの価値を生かさずに捨てるのは惜しいという意味であるが、過分のことで畏れ多い、かたじけない、ありがたいという意味もあり、「自然」も含めて自分以外の存在を敬愛し共生するという日本人の生活の心の重要な部分を表す言葉である。古い日本住宅に育った子供たちは、夕餉の竈の世話などを通して日本人の心を実体験として修得していったのである。「人は家をつくり、家は人を作る」という言葉のとおり、古い日本住宅はまさに日本文化を子供たちに伝え、文化創造の力を賦与する道場の役割を果たしていたといえる。 いまの子供たちは、上に述べたような話に興味を示さないというわけではない。小学校への出前授業でこんな話をすると、「私もそんな経験ある」と応じてくれる子供がいる。筆者の生家で、その道の専門家を招いて子供と保護者に話をして頂く「畑田塾」でも、子供たちは話の合間に家の中を探検し、この家に暮らしてきた人々の生活様式や風習に思いを馳せ、自分達とは違う時代に生きた人々の文化を学び取っていくように見える。このような思いは、総合的な学習の時間などに古い民家を訪れる子供たちも経験するようである。今こそ、登録文化財のような日本文化発信の拠点というべき古い日本住宅を、子供たちが世界に通じる日本人として育つための教室として活用するべきときであろう。 本稿は、 畑田耕一著「古い日本住宅に見られる生活の工夫」畑田家住宅活用保存会・出版No.2、
ISBN4-903247-01-5(2004)より許可を得て一部抜粋のうえ改稿したものである。 |