大阪の文化と自立の精神(2008.10.30)

国際ロータリー2660地区 2008−09年度国際親善奨学生 ルーヴァンカトリック大学
服部 敬弘

一般の外国の方が抱く伝統的な日本のイメージは、サムライで占められていることが多いように思います。かつて、大阪にあった町人文化は、外国の方にはあまり知られていないようです。大阪に住む私たちですら、大阪の歴史や伝統的文化について知らないことが少なくありません。

まずは江戸時代。そもそも江戸時代の武士階級は、人口全体の7パーセント前後だったそうですが、大坂ではもっと少なかったと言われます。その大坂にあって、武士以上に、政治的、経済的に中心的役割を果たしたのが、「町人」と呼ばれる有産階級です。町とは、道路で囲まれた区画を意味します。この区画には町屋と呼ばれる家が並んでいました。この町屋に住む人たちが町人です。

大坂には当時600ほどの町があったと言われますが、この町のなかで、町人たちは自治組織を運営し、独自の経済、学問、文化を発展させていきました。当時の町人たちにとって、大坂城は幕府の威光は象徴していたものの、そこは任期制で赴任する城代が居住し、実権はあってないようなものであり、実質的な支配機能を果たしていませんでした。武士の居住地は大坂城周辺と中之島を中心とする川沿いの諸藩の蔵屋敷に限られ、彼らも大坂にあっては、ほとんど中心的役割を果たしていなかったのです。また、大坂の外においては、堺をはじめ、在郷町と呼ばれる富田、茨木、池田、枚方、平野、八尾、富田林、貝塚などの町人による多くの自治都市が高い密度で分布していました。

前近代ヨーロッパでは、教会を中心とした共同体が形成されていたのに対して、大坂はこうした町人中心の共同体でした。ヨーロッパの教会が担った学問の発展は、大坂では、町人が担います。町人たちは、「塾」と呼ばれる独自の教育機関を運営しました。塾はヨーロッパの大学に当たりますが、仏教的色彩はほとんどなく、儒教を柱とした教育が行われていました。生徒は、大部分が町人の子どもたち(より正確には息子たち)でした。当時、江戸にも民間の塾がありましたが、これらは武士の子どもが中心でした。ここにも大坂と江戸の基本的な違いが見て取れます。町人中心の文化と武士中心の文化とでは、その学問をする態度も違ってきます。江戸の学問は、基本的には、近世最大の思想家の一人である荻生徂徠の学説を源として展開していきます。徂徠は、中国の古代王朝を理想国家とし、これを実現すべく、古代中国のテキストの読解法を伝授します。徂徠の学説は、武士の子弟たちには熱狂的に受け容れられたと言われますが、大坂の町人学者はこれを徹底的に批判します。徂徠の学説が、中国古代王朝を無批判に絶対視している点、また、支配階級以外の民衆が学問をする積極的な意味を認めない点を攻撃したのです。大坂の学者たちにとっては、学問はあくまで合理的精神に則った、すべての民衆に開かれたものでなければならなかったのです。

大坂が江戸的な儒学中心の学問から徐々に離れ、蘭学と呼ばれるオランダ経由の西洋の知性を積極的に受容していくに至ったことは、上記のことと無関係ではないと思います。江戸にあって、塾は、あくまで将来の統治者である武士を教育するための社会的装置でしかありませでんしたが、大坂では、学問を統治のための手段に貶めることなく、自由な思考が展開されました。オランダの学術文化は、18世紀頃から長崎経由で流入してきます。もともと大坂は、全国各地から物資の集まる場所でした。日本のアムステルダムといってもいいかもしれません。こうした背景から、大坂の町人たちはヨーロッパの知性にいち早く触れることができました。その中心となったのが、適塾と呼ばれる塾でした。現在適塾は、大阪市中央区北浜に重要文化財旧緒方洪庵住宅として、近代的なビルの谷間に残されています。適塾の蘭学の伝統を継ぐ知識人たちは、その後の日本の近代化にあって重要な役割を果たし、日本の新しい時代を切り開くことになります。

しかし、蘭学の摂取が江戸的な儒学中心主義から脱却していったことは、他方で、従来の伝統的な儒学の軽視につながっていきます。ヨーロッパでは、近代精神がキリスト教の教義に対する徹底的な懐疑から始まっていたのと同様に、大坂の知性もまた、儒学からの離脱を積極的に図っていきます。ヨーロッパが近代化と同時に、道徳的な空虚に耐えなければならなかったように、大坂もまた、儒学という既成道徳からの離脱に伴い、新たな道徳の不在に耐えることになります。明治にいたって、この状況は日本全体におよびます。近代化の拡大は、同時に既成秩序の徹底的な否定を意味し、後にこの道徳的空虚は、天皇制イデオロギーによって埋め合わされることになったのです。話を適塾に戻しますと、ここでは、生徒にオランダ語を教え、ヨーロッパの学問を講じる一方で、緒方洪庵によって20歳に満たない者は漢学の素養を身につけることが強く勧められました。ところが、こうした状況は徐々に変化し、19世紀の適塾の生徒たちは、西洋と東洋という単純な二元論に凝り固まって、西洋の知識の摂取にのみ邁進していきます。儒教という民衆の道徳を支えたといわれる伝統的原理を徹底的に否定していくことになるのです。

このように考えると、日本の近代化を築き上げたものの一つは、大坂の町人文化であると言えると思います。この近代化には光と影がありますが、大坂の町人たちによって担われた塾がその両方に関わっているということです。大坂の町人たちは、自治によって政治権力から学問を守り、その合理精神によって、旧来の封建秩序からの脱却をはかりました。その結果が、明治維新以降の目覚しい日本の近代化につながっていきます。適塾の輩出した福沢諭吉が、後に東京に慶応義塾を設立したことは、適塾の精神の東京への輸出とみなすこともできるかと思います。この東京に輸出された適塾精神によって培われた人物の一人、小林一三が、後に大阪に私鉄文化をもたらすことになります。

明治以降の大坂は、河内地域で全国一を占めた綿作収穫量をもとに、自ら準備した近代精神による紡績機械の輸入により、近代紡績業において経済的にもさらなる発展を遂げ、東洋のマンチェスターと呼ばれるほどにまで発展をしました。江戸時代、すでに国内で最大規模の経済力を誇っていた大坂は、明治以降、とりわけ鉄道事業でも目覚ましい発展を遂げます。ここでも、江戸(東京)との対比が、再び著しいものとなります。

東京にもいち早く鉄道が敷かれましたが、その担い手はやはり国家、明治新政府でした。東京には、国鉄中心の鉄道網が敷かれることになります。これに対して大阪では、いまでも同じですが、鉄道事業が民間の企業によって担われます。この民間の鉄道事業(箕面有馬電気軌道)の創業者が、慶応義塾で学んだ小林一三でした。この鉄道事業にあって、明治の大阪は、東京に輸出した町人文化を逆輸入する形で、かつての文化を継承発展させて行くことになります。私鉄の阪急電鉄は、国鉄に先んじて独創的なアイデアを次々と出します。特に大阪北部にレジャー施設と住宅地を作り、新しい生活スタイルを提示するとともに、大阪梅田に最初のターミナル百貨店を建てるなど、既成観念に囚われない自由な合理精神と国家におもねることなく自分の考えを通す気概、小林一三のこの一貫した姿勢の源を、大坂の町人文化に求めることはそれほど恣意的なことではないでしょう。これを象徴することとして、たとえば1920年代まで、大阪駅の国鉄の線路の上を、阪急の高架が堂々と走っていた事実を参照することができます。これは、私鉄の国鉄に対する優位、民の官に対する優位を象徴することとも言えます。私鉄沿線を中心に街づくりが進み、都市整備が行われて、当時、大阪から東京へ行った人は、東京が田舎に感じるほどであったと言われています。

しかし、残念なことに、逆輸入されたものは長続きしませんでした。小林を介して継続されるかに見えた町人精神は、大阪の民衆自身によって忘却され、大阪の町人的な自主・自立精神をことごとく否定する政府の方針に、大阪の民衆自身が迎合していくことになります。とりわけ、国民が戦争へと駆り立てられていく1930年代に至っては、国鉄の政策が、私鉄の政策より優位に立ち、私鉄の独創的精神は国鉄の政策の前にことごとく潰されてしまいます。国鉄の上を走っていた阪急も、改修工事を余儀なくされました。天皇行幸に伴う鉄道省からの阪急高架改修命令に対して、阪急は頑なに拒否し続けましたが、これに対して、大阪の民衆自身が批判の矢を向けました。民衆の側に立ち続けてきた阪急は、民衆からの支持を失ったかたちで、改修命令に応じることになりました。この出来事は象徴的です。東京から大阪に町人文化を逆輸入した小林を見捨てたのは大阪の民衆自身であったということ、独自の文化を自ら放棄して国家に追従したことは、民衆レベルでは、もはや「大坂」が過去のものとなったことを象徴しているようです。「大坂」が「大阪」に変わったといえるのかもしれません。

さて、「大坂」が、20世紀前半まで日本国内で極めて重要な位置を占めてきたことを、その町人文化を通じて紹介してきましたが、戦争で大きな打撃を蒙った「大阪」は、とりわけ高度経済成長期以後、急速に没落していきます。現在は、もっぱら経済的な地盤沈下が叫ばれ、大阪府の抱える借金は、5兆2千億円、完全失業率は5.3%に達し、大阪で生まれた企業も次々と東京に移転し、大阪の苦境を説明する事例には事欠きません。

それでも、往時の町人文化の精神は、たとえひそやかではあっても、大阪の底を流れていることは間違いありません。福澤諭吉の自伝によれば、適塾の書生は、東京とは違い、世俗的なことにとらわれることなく、ただひたすら学ぶことを楽しんだといいます。大阪にはこのような自由な空気が流れていたのだと思います。私たちはこうした自由の空気を吸った痕跡を、大阪出身の世界的文化人の仕事の中に見出さないではいられません。今、私たちに残された課題は、この文化の流れをより太く、力強いものにしていくことではないでしょうか。これこそが大阪をより活性化していく一番よい方法ではないかと考えます。

以上、江戸時代から現代までの大阪を、東京との対比を中心に、サムライ文化とは異なる側面に光を当てつつ、概観してみました。大阪がいかに東京と比べて独自の文化を形成してきたかということではなく、大阪に独自の文化があったにもかかわらず、それを大阪人自らが深化させることを怠ったという点が重要なのです。これは大阪と東京の間だけではなく、日本とヨーロッパの文化について語るときにも起こる問題かもしれません。いずれにしても、こうした点を、文化を語る際には忘れないでおこうと思っています。

なお、本稿を草するに当たり、以下の文献を参考にさせて頂きました。また、大阪府文化財保護課建造物担当 林義久氏には、いろいろと貴重なご助言を頂きました。厚く御礼申し上げます。

塚田孝編『大阪における都市の発展と構造』山川出版社、2004年。
原武史『「民都」大阪対「帝都」東京』、講談社選書メチエ、1998年。
福澤諭吉『新訂福翁自伝』、岩波文庫、1978年。
宮川康子『自由学問都市 大坂』、講談社選書メチエ、2002年。
脇田修・マクレイン編『近世の大坂』、大阪大学出版会、2002年。
脇田修『近世大坂の町と人』、人文書院、1986年。

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