核のいたみを忘れないために
                           あさの会副会長    佐藤良生

ヒロシマ 63年まえの体験

1km 原爆は昭和20年(1945年)8月6日、広島市の上空約580mで爆発しました。私はそのとき中学3年生、爆心からちょうど1kmの自宅でした。1km以内での生存者は極めて稀です。私自身、よく助かったと思います。

家族 その時、家には私のほかには母と中学1年の弟と5歳の妹がいて、この4人が潰れたわが家の下敷きになりました。父は朝早く出張に出、広島駅から東へ暫く走ったところで、原爆の閃光を見ました。上の妹2人は、小学校の3年生と6年生で、集団疎開しており原爆に遭わずにすみました。

周囲・きのこ雲 私は幸運にも自分で這い出すことができました。その時に見た光景は忘れられません。見渡す限りの建物はすべて潰れ、2〜300m先には火事が起っていました。空は、火災の煙か土煙で薄暗く、時刻もわかりません。
 「とんでもなく大きな爆弾にやられたんだ」というのが、そのときの実感でした。原爆というと、キノコ雲がいわれますが、私たちは、キノコ雲は見ていません。私たちはキノコ雲の足元にいたのです。

脱出 弟を助け出すのは比較的容易でした。母と妹とは同じ場所にいましたが、梁や柱に挟まれ救出はたいへんで、一時は、母は、私と弟に逃げるように言ったほどです。それでも、どうやら4人揃って避難することができました。妹はかなり重い怪我をしていました。火がすぐそばまで来ており、まさに着の身着のままでした。助けを呼ぶ声も聞いたと思います。 

防火用水 電車道を越えたところに市役所があり、その周りが建物疎開で空き地になっていました。市役所もやがて火を吹き出し、四方はみな火事で強い熱風が吹きます。防火用水に何度も飛びこんで体を冷やしましたが、着ているものはすぐにカラカラに乾いてしまうのでした。水槽の水を飲んでは吐いたことを憶えています。このことは体内に入ったかも知れない微細な放射性物質を排出する効果があったとも考えられます。
 その頃、広島では大規模な建物疎開が行われていました。動員されたのは12〜13歳の中学生・女学生で、約7,000人が亡くなりました。全滅したクラスも少なくないのです。

赤肌 夕方になって、とぼとぼと歩き、坐り込んでいるところを救援のトラックに乗せられました。荷台には何人かの人が坐っていましたが、半袖シャツの腕はやけどで赤裸、剥けた皮膚がポリ袋のような状態で、手の先にぶら下がっていました。トラックが揺れて、赤肌が触れ合うと、何度も悲鳴があがるのでした。

父との再会 私たちは、広島湾内の金輪島にある船舶隊兵舎に収容されました。原爆が投下された午前8時15分は、人々が仕事を始める時間でした。家族ばらばらの人のなかで、4人が揃っていることは皆に羨ましがられました。
 何日かして、父が収容所に尋ねてきました。家族の無事に涙を流したのは父の方でした。

脱毛 被爆から2週間ほどたった頃、髪が抜け始めました。朝、枕にいっぱい付いており、頭に手をやるとバラバラと落ちるのです。それが放射能のせいとは考えつきませんでした。戦争中、男は大人も子どもも丸坊主でしたが、被爆した頭はつるハゲになってしまいました。
 時間が前後しますが、その年、昭和20年の暮れころに、わずかに残っていた髪がまた伸びはじめました。根元が細く弱弱しく、先が太い頭でっかちの毛でした。

母の死 8月の末、被爆した4人に高い熱が出て、広島県北部の庄原で入院しましたが、母は入院の翌朝に亡くなりました。父は葬式を続けて出すことを考えたと後に話しました。

治療・妹の死 被爆者にどんな治療をすればよいのか分かっていませんでした。くすりもありませんでした。病名は原子爆弾症でした。私たちは、健康な人から二、三日ごとにもらう血液を筋肉注射されました。これは通常の治療法ではありませんでした。
 翌年3月にかなり元気になっていた妹が、急に様子がおかしくなって亡くなりました。小学校入学の直前でした。

胃がん・肝臓ガン(弟の死) 弟と私は、いろいろと病気をしましたが、どうやら生き残りました。しかし昭和46年に私は胃潰瘍といわれて手術を受けました。医者になっていた弟は私の手術に肉親として立ち会ったのですが、5年たって、あれはガンだったんだと言いました。
 その弟が肝臓ガンになり、国立がんセンターでの二度の手術も空しく、昭和59年に亡くなりました。被爆から39年たっていました。被爆した4人のうち、私だけが生き残っています。

三万発 世界には今、核兵器が3万発もあると言われています。アメリカは核拡散防止条約を提唱したのに、小型・強力な核兵器開発に力を入れています。核兵器は大きな爆発力、高い熱、そして恐ろしい放射線を出します。原爆を受けた人がガンになるだけでなく、子孫にも影響することがあります。

25万人・74歳 広島・長崎で原爆を受けた人、後から家族を探すなどで街に入り放射能を浴びたと思われる人で、今、生き残っている人、つまり被爆者は日本中で約25万人です。その平均年齢は約74歳。横浜市にも約2,500人の被爆者が居るのです。

被爆者の使命 原爆の恐ろしさを知ってもらい、それが使われないように、原爆を無くすように、日本だけでなく世界中の、特に、若い人たちに訴えることは、生き残った私たち被爆者の使命だと思っています。世界中の人がお互いをよく知り仲良くすることが、原爆を無くし、平和な世界を作ることに繋がると私は信じたいのです。   

あらゆる機会に語り部活動 私は主として横浜市内の小・中学校や市民、労働組合、婦人団体などで語り部活動を行なっていますが、機会があれば海外での活動もしています。2001年秋には同時多発テロの直後に、横浜と姉妹都市のバンクーバー市の高校生たちに呼びかけました。2005年5月にはニューヨーク市で、7〜8月にはベルギーでの平和行進に参加し、秋葉広島市長の「2020年までに核兵器廃絶を!」に賛成の市長たち・一般市民に訴えました。また2006年夏には首都ワシントンとその周辺の州を訪れ、約2週間にいくつもの場所で、アメリカ市民に語り部を行ない、市民の反応を実感しました。今年の3月には英国の核兵器製造施設へのデモに参加し、英国の学生たちに訴えました。
 アメリカの高官にも核兵器廃絶を唱える人がいます。この声を広げるべきです。体の許す限り、核兵器を無くし、戦争をなくすための「語り部活動」をするつもりです。(2008.9.29.追記)

筆者自己紹介

佐藤良生(Sato Yoshio)
 昭和5年生まれ、広島市出身、被爆者、現在「あさの会」副会長として、男の料理とウォーキングで精力的に活躍中、横浜市栄区庄戸在住。
 2009年5月、私は初めて母校大阪大学の大学祭に出かけました。卒業後50年余、顔見知りの人はほとんど無く、浦島太郎の心地でいたところ、畑田耕一さんと出合ったのです。今や、化学とほとんど無縁の私は、現在していることを知ってもらおうと「被爆体験記」を彼に送りました。核兵器廃絶の願いを一人でも多くの人に知らせたいとの気持からです。これが切っ掛けとなって、被爆体験記が畑田家住宅活用保存会のホームページに掲載されることになりました。

本稿は、「あさの会」のホームページに記載されている筆者の被爆体験記を同会の許可を得て改稿したものであることを申し添えます。(佐藤良生、2009.5.17記)

http://yokohama.cool.ne.jp/asanokai/kakunoitami.html

トップページに戻る  文・随想のペ−ジへ